ダーリヤは俺に皿を持ち上げて合図を送ってきた。
マックスにしては大きめの声の話だ。
耳に入ってきたのだろう。
ちゃんとした食事より、つまめるものの方がよさげだと判断したらしい。
そっと応接のテーブルに、今日の夕食の中から選んで、ウイスキーに合うものを皿に乗せてそっと置いた。
ピックを刺したチーズやソーセージが食欲を誘う香りを立てる。
まあ食え、と俺はすすめる。
「うんありがとう。で、無論その話は速攻で両親に話したさ。そして向こうの家のご両親や弁護士と一緒に顔を合わせたんだ。ところが彼女、こっちが出張のことを言うと、こう言ったんだ。
『そんなことどうでもいいじゃないの。相手とは結婚できないんだし。一緒に育てましょう』
……冗談じゃない。何が悲しくて、留守中に、結婚前に間違いを犯した結果を僕の子供だと言って育てなくちゃならない?」
「それで婚約破棄か」
「当然だ。彼女がどう言いつくろったって、実際僕が居なかったことは周知の事実だからね。……で、当初まるで相手の名を言わなかったんだけど、色々問いただした結果、実は……」
マックスの口から出たのは、俺達の実家よりやや格上の爵位持ちの男だった。
「って、妻子居る奴だろう!?」
「だからいつ彼女がそいつと関係を持つ様になったのかもさっぱり判らないし、格上の家にこっちがどうしていいのかも判らないし、彼女が本当にそれを望んでいたのかも判らないまま、ともかく時間ばかりが経ったらしい」
「じゃ、無理矢理ってことも……」
「いやそれも判らないんだ。正直、ちょっと背後に隙があれば、あの華奢な彼女のことだ。スカートをまくり上げてしまえば、行為に及ぶことなど簡単だろう?」
確かに。
女の下着など、結婚するまで知らなかったが、腰をあれだけ取るのが厄介なコルセットで締めているくせに、下は無防備だ。
排泄のために、と彼女達の下履きは真ん中が割れている。
少し前だったら、クリノリンという檻があったが、今のドレスはそうではない。
重なるペチコートをめくりあげてしまえば、そこはもう無防備なそれだ。
「だから彼女もショックを受けて俺の子供だと思い込んでいるのか、とも思ったんだが、どうでもいい、相手とは結婚できないんだし、貴方とすることは決まってるんだし、と言ったんだ。その時俺は何かが自分の中で崩れ落ちる音を聞いた気がした」
……それは確かに。
いや正直、あのふんわり華奢なサリューナが、と思うと俺すら目眩がしてくる。
「うちの両親はもう怒り心頭。何というか、僕も末っ子だからね。両親はできるだけいい条件で独立させてやりたいと思っていた訳だ。それがこれだよ」
嗚呼。
こうなるともう、掛ける言葉も見つからない。
「ただそれでもサリューナが絶対に僕と結婚するって言って聞かないんだ。結婚とそれとは別、とか言って。もう向こうの両親も何を言ってるんだ、って彼女をなだめても、
『だって昔から結婚してくれるって言ってたじゃない』
だよ。だからって、それだから何をしてもいいって訳じゃないだろう? どうなってるんだ一体、と思った時、思わぬ伏兵が現れた」
「伏兵?」
「彼女の兄だ。その場に居たんだよ。彼は彼でなかなか相手が決まらないというか、独身を楽しんでいるんだけどね。その彼が彼女に言った。
『以前君は私が結婚もしないのにあちこちの女性に声を掛けたり関係を持ったりするのを見て不潔だ、と顔をしかめたけど、今の君とどちらが不潔なんだい?』」
「うわ」
それはきつい。
だがそれで気付かなかったら――と思うとその方が怖い。
「それで?」
俺はつい続きをうながした。
「さすがにそれには彼女言葉を無くしたね。というか、固まって動けなくなってしまった。仕方がないから退場。そしてうちと向こうでは婚約破棄――というか解消が粛々と行われたということさ」
「……いや…… それは本当にご苦労だったな」
「だがそれでは終わらないんだ」
何だって?
もう一杯くれ、と奴はグラスを差し出した。
「今日サリューナに追いかけられていただろう?」
「あ? ああ」
「婚約は無しになったからそれでいいか、と思ってほっとしていたら、……まあさっき言った様に、腹の中の子供は流れただか始末だかしたらしい。そうしたらある日俺の前に現れてこう言ったんだ。
『もう子供は居ないんだしまた私と一緒になれるわよね』
げっそりこけた頬で満面の笑みだぜ……」
「それは怖いな……」
「それからずっと追いかけられてるんだ……」
そしてはあああ、と大きなため息をつくと、ぐいっとグラスの中身を飲み干した。
「よし判った。今夜は呑もう」
「ありがとう」
俺はそう言って再びマックスのグラスにウイスキーを注ぎ始めた。
だが元々強くは無い奴だ。
やがて疲れもあったのか、ソファで寝付いてしまった。
ダーリヤはそんな彼に毛布をかけると、俺の横にそっと座る。
「大変ね」
「このままじゃただ逃げるだけでなく、女性恐怖症になりかけてるものな。なあ、明日実家へ行ってきてくれないか?」
「判ったわ」
さすがに第三者からどう見られているか、ということはきっちり知らせないといけないだろう。
*
さてそれからしばらくして、どうやらサリューナは遠くの療養所に送られたらしい。
元々仲の良かったうちの実家からもいい場所がある、と紹介したのだ。
それこそ山の方の空気の良い場所で。
鉄道を何度か乗り継がないといけないから、そう簡単に追いかけては来れないだろう。
そして。
「だからと言ってまた国を離れることにしたっていうのも極端ね」
大陸を東に進む列車を駅のホームで見送りながらダーリヤは言った。
先に出張していた辺りへ、今度はしばらく出向することにした、というのだ。
「ああ。でも仕方がないさ」
じゃあな、と俺は走り出す汽車に向かって手を振った。
行った先で少しでも幸多かれと。