第百七十話 策士翻弄

 局面は30手に届くあたりで交代が宣言され、隣で行われている大盤解説の会場でも盛り上がりを見せていた。


三岳みたけ六段、これはどういうことでしょうか?」


 聞き手役の女流棋士が、大盤を見てぎょっとする。


 先手であるカインのとった戦法は、居飛車で雁木囲いという堅くバランスの良いプロ向けの戦法である。


 対する赤利の戦法は、序盤の数手こそ居飛車の定跡通り指していたものの、カインが雁木囲いに組み始めるや否や、それを見ていきなり王様を三段目に持っていき、飛車をフラフラと移動させながら、バラバラで不安定な形を築いていた。


 ハッキリ言ってしまえば、悪形、悪手のオンパレードである。


「これは……まぁ凄いですね、私もパッと見ては分かりませんが、タッグ戦ならではの戦い方があるんでしょう。それに、相手は海外の強豪選手です、単なる定跡型では通用しないと思っているのかもしれませんね」


 そう解説する三岳に、なるほど……! と相槌を打つ女流棋士。


 三岳とて、この手を咎める材料はいくらでも持っている。


 しかし、青薔薇赤利の実績は本物。それが何の考えもなしにこんな悪形を築くとは到底思えない。


 それに、悪形ではあるが、隙があるわけではない。先手が今すぐ仕掛けようとすると、即座にカウンターを浴びせられる形をとっている。


 定跡を外しながら、これだけの邪道を正しく歩んでいるのであれば相当なものだ。仮にこれを意図的に考えて作っているのなら、それはもはや天才を越えた何かだろう。


 三岳は心の中でそんな風に思いながら、大盤から少し距離を取って、目を細め、盤面全体をぼんやりと見つめる。


(しかしこの形、どこかで……)


 ※


 同時刻、ついに始まったWTDT杯は多くの将棋スレで書き込みが多発し、こちらも現地同様に大きな盛り上がりを見せていた。


【『WTDT』ワールド・ザ・ドリーム・タッグ生配信板part11】


 名無しの122

 :青薔薇が自滅流指したってマジ?


 名無しの123

 :自滅流きちゃーーっ!


 名無しの124

 :チームに自滅帝いる時点で何となく予感はしていたが、まさかやるとは……


 名無しの125

 :だが、交代の時間だッ!


 名無しの126

 :交代するのもったいない


 名無しの127

 :まさか青薔薇赤利の自滅流見れるとは思わなかったな


 名無しの128

 :くぅ……ここからが自滅流の真骨頂なのにもう交代か


 名無しの129

 :>>128 真骨頂だからやろ、後ろに控えてるのは……


 名無しの130

 :>>129 あっ(察し)


 名無しの131

 :ここからが本番


 名無しの130

 :来たな


 名無しの132

 :一体何が始まるんです?


 名無しの133

 :うおおおおおおお!


 名無しの134

 :始まる……


 名無しの135

 :きた



 WTDT杯の対局場では、交代を知らせるブザーが鳴り、赤利はそれを聞いて立ち上がる。


「もう交代か、時間が経つのは早いなー」

「お前……」


 両手を伸ばし、まだまだやり足りないといった様子の赤利。


 対するカインは、自滅流という未知の戦術に遭遇したことで下手に攻めることができず、身の守りに徹していた。


 定跡が外れているのであれば、悪形であることは容易に想像できる。少しでも攻めることで優位を築いていれば、この後のジャック、そしてアリスターに繋ぐ良いバトンになっていたかもしれない。


 だが、カインはそれを見送った。赤利の気迫におされて、何かあるのではないかと疑ってしまったのだ。


「安心するのだ。お前のことは次に当たった時に料理してやる」

「調子に乗るなよ。俺と対峙する前に、お前達はアリスターに殺される」

「アイツらはそんな柔じゃない」

「……チッ」


 二人は睨み合いながらも対局場を後にし、それとすれ違いざまに次の選手が通り抜ける。


 ──真才と、ジャックだ。


「……」

「……」


 二人は決して言葉を交わすことなく、赤利達の横を通って対局場へと向かう。


 煩悩を払うかのように、ジャックに視線すら向けない真才だが、対するジャックは真才を凝視していた。


 それは、赤利の交代が宣言された直後のこと。


 後を追うようにカインの交代も宣言され、両者ともに交代となった状況の中、待機室ではジャックとアリスターが対局の様子をディスプレイで観察していた。


『なんだありゃ? 今の日本の最新戦法か何かか?』


 警戒するカインとは違い、あざけるように皮肉を口走るジャック。


 そんなジャックに、画面を見ていたアリスターは静かに告げる。


『……おい、ジャック』

『うっす、なんすか?』

『──お前、下手に仕掛けるな』


 アリスターから受けた助言を、ジャックは怪訝に思いながらも頷く。


(こんなメディアで見たこともない奴を、アリスターさんは警戒してるってのか?)


 初めて見る顔、初めて見る指し手。未知に恐怖しないのは愚者の思考であることはジャックも理解している。


 だが、自分達は練習試合で圧勝している。青薔薇赤利の底は知れた。問題の天竜一輝もアリスターなら対処できるだろう。


 そうして残されてた最後の異物に対し、今まで口を挟むことすらなかったアリスターが助言を告げるなど、異様としか言えないものだった。


 両者が席に座り、中断された対局時計を真才が押す。そして、ジャックの手番から対局が再開された。


(仕掛けない、仕掛けない……囲いを強化するか? いや、仕掛けなければいいんだ。もっと簡単なやり方があるな)


 ジャックは自らの囲いを発展させることなく、攻めの小駒を前面に押し出して仕掛ける態勢を作る。


 真才はそれを警戒し、いつ仕掛けられても良いようにカウンターの準備を決めた。


(よし)


 そこでジャックはいきなりペースを落とし、仕掛けるはずの争点の部分をそのままに、端を突いて時間を稼ぐ。


 それを見て、真才は思わず瞠目した。


(……マジか。鋭いな、手待ちされた。これじゃあ、こっちからも仕掛けられない)


 真才の得意とする自滅流は、戦いが始まってからが真骨頂。一見隙だらけに見えるところを相手が咎めてくる、その争点を利用して王様が大暴れする戦術だ。


 次の天竜にバトンを渡すまでの15手で、真才は優勢といかずとも、作戦勝ちくらいは決める必要があった。


 だが、ジャックの手待ちによって争点が発生せず、ペースが鈍化する。


 当然その程度で参るはずもなく、真才は脅しをかけるように自ら先行して攻めようと形を作るが、ジャックは攻められるのも承知の上で、やはり自分からは仕掛けにいかない。


(初見でこの対応、タッグ戦というルールを完全に理解していても気づくのは難しいはずだ。……しかし、参ったな。このまま15手に到達したらアリスターと交代される。そして仮に今無理やり攻めたとしても、その瞬間にアリスターと交代される。どちらに転んでも、今の俺は動けない)


 真才にしては珍しく長考する。


 これまでも、自滅流の隙を突く者は大勢いた。


 だが、自滅流はいくつもの欠点を抱えながら、その欠点は多くの利点によって打ち消されている。そして、その相互作用を完璧に操る術を身に付けているからこそ、真才は自滅流を自在に操れるのだ。


 仮に今の真才が自分から仕掛けにいき、それで多少無理攻めになったとしても、そこから巻き返す手はいくらでも存在している。


 真才は、自滅流を完璧に理解している。


 ──だが、後続の天竜はそうじゃない。


(もし俺が争点を作ることになったら、その対応は天竜に引き継ぐことになってしまう。もちろん天竜にもある程度の知識は教えてあるが、完璧じゃない。このまま何の成果も挙げられずに手が進むのはよくないな……)


 5分の長考。局面は全くの互角でありながら、真才は次の一手に悩んでいた。


 ──しかし、そこで交代のブザーが鳴る。


「……!?」

「交代……?」


 何よりも驚いたのはジャックだった。


 何故なら、その交代の宣言は海外陣営、つまりはジャックの方だったからである。


 手数はまだ5手、しかも手番は真才。それでいてジャックを引き下がらせる宣言に、待機室で見ていたアリスターでさえ驚く。


(あ? 最短手数での交代? なんだ、翠の奴焦ってんのか?)


 アリスターは立ち上がり、翠のいる奥の部屋に視線を向けた。


 そして、一瞬で理解する。


(──なるほど、あっちもあっちで色々あるらしいな。まぁいい、上のケツを拭くくらいは下の役目か)


 隣で何が起こってるのか分かっていない様子のカインを差し置いて、アリスターは対局場へと向かっていった。


 そして、その頃会場では、カインと同じく何が起こったのか分からずに困惑しているジャックがいた。


(最初の交代は15手限界まで指してからだったはず、何故だ……!)


 本来の予定では、カインとジャックは両者とも15手指し、練習試合とは全く違う配分をすることで相手を惑わす意図もあった。


 だが、ジャックの指し手は最短手数の5手。まるで自分はお役御免と言わんばかりに交代を宣言された心境は、計り知れないものだった。


「……Shit!」


 吐き捨てるようにそう呟き、待機室へと帰っていくジャック。


 それを見ていた真才は、椅子に寄りかかるようにして安堵した。


(そうか、沢谷師範が何かやったのか……。ありがとうございます、助かりました)


 真才は心の中で感謝を述べ、すぐに気合を入れ直す。


 ジャックと入れ替わるように、奥の方から力強い足音が響いてくる。


 恐怖を煽り、大きな何かと対峙するような威圧感を覚えつつも、真才はその方角へ目線は向けない。


「──救われたな」


 アリスターの第一声が、真才の耳に届いた。


「……何のこと?」

「とぼけるなよ、

「……!」


 駒の並びを整えている真才の手が、止まった。


「渡辺真才、だったか? ──お前が一番強いな?」


 そこで初めて、真才の目はアリスターの方を向く。見開いた目の色は、驚愕とも、怒りとも取れない何かで混沌としており、それをアリスターは顔色一つ変えずに真っ向から受け止める。


「……だったら、なんだ?」

「オレには通用しねぇぞ、自滅流ソレ


 凍えたような声色で告げる真才に、アリスターは恐怖を煽るような声色で返す。


 ジャックが最短手数で交代したことにより、両者の順番が崩れ、対決する者同士が入れ替わる。


 そして、ついにマッチした真才vsアリスターの戦い。


 最も注目されることとなるであろうその戦いは、まさかの1周目で始まりを迎えたのだった。