第百二十一話 戦慄

 来崎の限界が再び突破される。


 思考がどこまでも加速し、重い風邪を引いたときに見る夢のような理解できない感覚が襲い掛り、自分だけが別の次元で生きているかのような時間の錯覚を覚える。


 その思考の最中で導き出される一手は、到底常人には理解できない類のものであり、来崎自身もその一手が正しいものなのかすら判別がつかない。


 自分で見つけた一手なのにもかかわらず、自分じゃない別の誰かが教えてくれたかのような違和感にすら苛まれる。


 それでも来崎は突き進んだ。


「……っ」


 さらに切れ味が良くなった来崎の一手に、真才の表情が厳しくなる。


(まだ……ッ!)


 守りの金を自ら飛び出させて金銀交換を迫る。


 真才はその交換を拒否して逃げるように銀を引くが、来崎は自身の思考を信じて迷いなく突き進む。


「おい、来崎が猛攻を仕掛けたぞ……!」

「守りの金を攻めに使うのかよ……」


 時間差は7分。来崎の持ち時間が29分、真才の持ち時間が22分である。


(まだ……ッ!!)


 誘い込むように逃げる真才に、猛攻を仕掛ける来崎。


 真才は狙っていた罠を発動させ、行き過ぎた攻めを見せる来崎の金を仕留めにかかった。


 歩を連打し、躍らせるように取らせていき、元の位置に戻れなくなった金の弱点を突いて駒得へと手順を図る。


 そんな細かい受けの手筋を見せる真才の歩を、来崎の角が食い破る。


「なんだ今の手……!?」

「角捨て……!?」

「いつから将棋はこんな簡単に大駒を捨てていい時代になったんだ……」


 蜘蛛の糸を焼き尽くし、分厚い壁をぶち破り、罠も策も小細工も全て破壊して突き進む。


(まだだ──ッ!!)


 自らの守りを崩し、大駒を切り、真才に一切の攻めの手番を渡さない。


 将棋戦争で培ったあらゆる者達の棋風を踏襲した攻め。それは真才の最善手を跡形もなく食い破る。


(……これは困りましたね。さきほどから来崎さんがAIの候補手にない最善手を指し過ぎていて評価値がアテになりません……)


 水原が棋譜を入力しながら困り顔を浮かべる。


 AIを超える手を一度ならず二度までも。──いいや、三度も四度も続けて指しており、もはや短時間で読み込む評価値では全くアテにならない。


 将棋ソフトで数分間探索させてようやく見つかるような候補手を、来崎はたったの数秒で指していた。


「……」


 考え込む真才の顔が下がり続け、ついに見えなくなる。


 影を落としたその表情は誰の目からも見えなくなるが、口元は噛み締めているのが分かった。



『【ヤバい】自滅帝とかいう正体不明のアマ強豪www【十段おめでとう】Part43』


 名無しの91

 :『評価値』後手+842 来崎夏・優勢


 名無しの92

 :>>91 これが正しい評価値っぽい


 名無しの93

 :めちゃくちゃに揺れ動いてたなww


 名無しの94

 :なんだったんださっきのメトロノーム・改は……


 名無しの95

 :ライカの指し手さっきからやばくね?


 名無しの96

 :あの自滅帝を本当に追い詰めてる……


 名無しの97

 :ライカってこんなに強かったっけ?


 名無しの98

 :>>97 配信してるときもたまに無言になってやべー攻め方してるの見たことある


 名無しの99

 :>>98 なんかたまにあったよなw急に無言になるからめっちゃ怖かった記憶だわ


 名無しの100

 :本人は自覚してないだろうけど、ライカの素の棋力は多分プロレベルだと思う



 煙に巻かれた視界を切り裂くように、来崎の放つ一手が真才の複雑化している局面を分かりやすく作り替えていく。


 おかげで真才は状況を混沌化させるような難しい一手を放つことができなくなってしまい、形勢もハッキリと来崎が優勢となった。


 それでも来崎の勢いは止まらない。


「これで──ッ!」


 勝負手となる王手銀取りを行い、真才の自滅流の要であった銀を奪い取る。


 真才はもう自滅流を組むことができない。空中に残った天空城は虚しく泣いたまま浮上している。


「……」


 真才は一呼吸入れて王様を飛車先から躱し、駒損を承知の上で守勢に回った。


(そうはさせない……!)


 しかし、来崎の追撃がそれを阻止する。


 ギリギリの壁際まで追い詰めているように見えて、まだ真才の王様は死んでいない。


 それを理解している来崎は、一切の油断なく真才の手を咎めに行き、攻めを継続させて真才の懐に剣を突きたてる。


 ──ついに寄せの段階だ。


 しかし、真才は悪あがきでもするかのように自滅流を自ら崩壊させ、その金銀を無理やり守りに引っ張ってくる。


 そんな隙を来崎は見逃さない。


「いよいよ寄せだな」

「この結果は予想出来なかったな……」

「自滅帝の負けか……」

「まさか来崎がここまで強かったなんてな……」

「メアリーが倒された時は凱旋も弱くなったものだと思ったが、相手が強すぎただけか」


 周りは既に来崎の勝ちを確信し始めていた。


 しかし、水原はタブレットを見つめながら静かに顔を項垂れる。


(……本当に、そうなのでしょうか)


 あの自滅帝がこんなにも一方的に押されて負けることなどあるのだろうか?


 そう思う水原だったが、自身のタブレットで二人の局面を精査するAIの評価値を見て、どうにもならない気持ちを浮かべる。


 ──『評価値』後手+2798 来崎夏・勝勢


 そこには絶望的な形勢が映し出されていた。


 二人の棋力はほとんど変わらない。つまり、ここからの逆転は現実的に不可能である。


 彼らの言うように、局面は既に寄せの段階。先手がここから逆転するには、後手が指す手を大きく間違える必要がある。


 しかし、今の来崎にその気配は一切無い。間違えるどころか正解すら超える手を連発している。


 そんな来崎の評価値を下がらせる方法など、もはやどこにもなかった。


 ──ピッ。


 真才の残り時間が10分を切った。


 来崎はその間もずっと自分の攻め筋に見逃しがないかを読み進めており、真才がどんな受け手を繰り出しても攻め切れるように思考を研ぎ澄ませていた。


『この世界で勝ちを確信していいのは、相手の詰み筋が見えた時だけだ』


 真才の言葉が来崎の脳裏を過ぎる。


(──詰み筋が、見えた……ッ)


 来崎はここにきて、初めて勝利を確信する。


 真才の玉形がどうしようもない状態であるのは一目見て分かるが、それでもここから逆転させる可能性がないわけではなかった。


 しかし、来崎が詰みを読み切ったことでその可能性は消えた。


「……ふぅ……っ」


 来崎の呼吸が荒くなる。


 自玉じぎょくは長い手数で詰んだ状態になっているが、打ち歩詰めの反則があるため詰ますことができない。


 逆に真才の王様はもう逃げ場所がなく、来崎の攻め駒がその場から消えない限り負けはない。


 ──来崎が勝った。誰もがそう思った。


「────」


 一瞬、空気がピシリと凍てつくように張り詰める。


 それまでずっと無言だった真才は、顔を上げて盤上に手を伸ばした。


 受ける手しか残されていないはずの真才は、その手を盤の自陣から中段へ、中段から来崎の陣地へと伸ばしていく。


 ──そして、『飛車』を掴んだ。


「はっ、アイツまだ読み切れていないのかよ。飛車成りからの王手は打ち歩詰めがあるんだよ」

「もう疲労で先を読むのもやっとなんだろ」


 遠く離れたところで、東地区の選手達がそう声を漏らす。


 しかし、それを見た玄水、赤利、龍牙は瞠目した。


「……!?」

「……ははっ」

「あぁ……そうか、そういうことか」


 真才は飛車を持ったまま移動させると、そのまま来崎の王様に攻勢を仕掛けた。


 ──王手。


「はっ……?」

「え……?」


 そしてそれを見た東地区の選手達は、さきほどとは正反対の反応を見せる。




 ──真才は、飛車を来崎に王手を仕掛けたのだ。



「反則が……消えた……?」


 何が起こってるか分からない者達は、唖然としたまま静止する。


 否、この場にてその意図を理解していたのはたったの数人だけだった。


(……不成《ふなり》。そうか、そこに光明こうみょうがあったのか)


 玄水は驚きながらも冷静に真才の思惑を分析する。


 それは赤利も同じだった。


(飛車を成って龍にしてしまえば、相手の王様の逃げ場所が無くなって詰み筋が発生する。しかしその詰み筋は打ち歩詰めとなり、反則となる──)


 二人の思考に重なるように、龍牙も顎に手を添え感嘆する。


(……打ち歩詰めは反則、つまり王手ができない。その固定概念をあえて飛車を成らないことで崩した。不成であれば逃げ場所が発生し、歩で詰む筋が消える。そうなれば打ち歩詰めの反則は適用されない、か……)


 この場にて唯一真才の意図を読み取った三人は、冷や汗をかきながら真才の後姿を見つめる。


「飛車不成なら、打ち歩詰めは発生しない……反則が回避できる……」

「唯一の回避策……」


 次いで理解したメアリーと魁人は、恐怖におびえた目を真才に向けた。


「……うそ、だろ……」


 ──全身に、戦慄が走った。


 周りにいた者達が全員、同時に身を引く。


 将棋の戦いにおいて、銀将、桂馬、香車の3つを除く全ての成駒は、元の駒よりも強いことが明確化されている。


 それこそ角や飛車といった大駒に関しては、成れるのに成らないという選択肢は存在しない。成った状態が元の状態より単純に動ける場所が増えるため、完全な上位互換として扱われる。


 あえて飛車を成らない、なんて考えることすらしない。普通であればそんな発想にすら至らない。


 だが、真才は指した。その悪魔的な一手を。飛車を成らないという選択肢を。

 

 ──▲3一飛車不成。真才の妙手が炸裂する。


 僅かな間をおいて、ようやく自身が指したことを理解した真才は、まるで忘れていたかのように対局時計のボタンを押す。


「……やっと、本気を出しましたね」


 恐怖に慄き、引きつった笑みを見せる来崎。


 ──真才の瞳の奥に赤い閃光が宿る。


 戦慄が止まらない。逃げだしたくなるような恐怖が止まらない。


 その眼は完全な忘我状態。自分以外の全てが見えなくなり、自分以外の全てを知り尽くせる状態。


 湧き出るような全能感から導き出される思考は、常識を外れて理解不能な答えへとたどり着く。


「なんだよ、これ……」

「こ、こんな手を……実戦で指せる奴が、いるわけ……」


 そうして、彼らは思い出した。


 目の前に座している男がどんな存在なのかを、どんな偉業を成し遂げた存在なのかを。


 プロ棋士ですらたどり着けなかった将棋戦争の十段に君臨し、強豪アマチュア相手に100連勝を遂げた、その名の通り生きる伝説。


 そう、彼の名は渡辺真才。


 ──ネット将棋トップランカーの自滅帝、渡辺真才である。


(ついに入ったか、極限状態《ゾーン》に……)


 それを傍から見ていた勉が真剣な目で真才の表情を一瞥。


(あぁ、そうです。これが自滅帝の本気……!)


 その隣で興奮気味の水原は、口角を上げながら先の飛車不成をタブレットに入力する。


 不成という常識外の一手によって詰む詰まないの計算がごちゃ混ぜになり、形勢が何度も反転し、正確な評価値が導き出されなくなった。


 もはや水原の持つ将棋ソフトでは、正確な形勢が判断できない。


 よって……。



 ──『評価値』不明



 掲示板には、そう投稿されるのだった。