勝って帰れ、負けたら帰ってくるな。凱旋の敷居は重く清らかである。そこに敗者が踏み入れる資格など無い。
中央地区の王者にして、無敗道場と謳われている一強の柱。数多の天才たちが
自滅帝など霞んで見えるほどの天才たちが集まるその場所では、選び抜かれた7名のエリートたちが団体戦へと出場する。
今大会、凱旋の目的は全国の上澄みに触れることである。そしてその目的は達成必須のノルマと課され、選出された各々によって新たな道が開拓される。
──県大会の優勝など大前提であった。
昼食休憩も終わりが近づき、中央地区の面々は事前のウォーミングアップを済ませて気合を入れる。
そんな彼らをまとめ上げる凱旋道場の師範、
「──赤利、分かってるわよね?」
「当然なのだー!」
赤利はいつもの軽い返事で沢谷の言葉を受け流す。
沢谷が切り出したその言葉の真意は実に単純明快なものである。
──負けたら分かっているだろうな?
非常に強いプレッシャーである。しかし、これまでも幾度となくそのプレッシャーを背負ってきた赤利にとって、今さらそんな脅しのような言葉を言われても怯むことはない。
褐色の隙間から光り輝く赤い瞳は強者の象徴を現し、天真爛漫な表情から窺える特徴的な八重歯は年相応の子供っぽさを感じさせる。
まさに対照的とも言えるそんな赤利の容姿に、多くの者は惑わされ、多くの者は侮りを見せた。
──曰く、今の将棋界には様々な世代が存在している。
定跡に囚われず、己が信念を糧に開進を続け、読みと実力で全てをねじ伏せた鬼才の世代──『第一世代』。
AIの研究によってあらゆる常識を打ち破り、真に最善たる一手を模索し続けた改革者達の世代──『第二世代』。
将棋という問いに明確な答えを出し、その結論に導こうとしている世代──『第三世代』。
どの世代が突出しているかは後世の歴史家達が決めることであり、どの世代にも他の世代には無い特徴や可能性を秘めている。
しかし、それらの世代に名を連ねるだけの才能がある者はごく一部しかいない。
──赤利は世代の代表者でもあった。
無敗の神童、幼子としての輝く鬼才、時代の寵児にして第三世代の最高傑作。それが"青薔薇赤利"という傑物である。
対するは自滅帝。ネット将棋界最高峰に名をおく伝説的な存在。彼もまた第三世代の申し子なのだろう。
しかし、赤利はこれまでの試合で本気を出したことがほとんどない。何故なら本気を出す前に決着がつくからである。
実力不明はお互い様。本当に飛びぬけているのはどちらなのか、今からそれを真に証明する時である。
「楽しみだなー」
そう言って旅館での昼食を食べ終えた赤利は、軽い足取りで会場へと歩いていくのだった。
※
赤利が会場に向かうまでの隙に、中央地区の面々は既に西地区と鉢合わせをしていた。
「……何の用かしら?」
東城の一言が場の空気を一気にピリつかせる。
真才と来崎の帰りを待っていた西地区の面々だったが、そこへ遮るように立ちはだかった中央地区の面々。
5人と6人の顔合わせに、両地区は開戦前から火花を散らした。
「おめでとう、西地区の皆さん。まずは決勝まで上がってこれたこと、称賛に値するよ。ダークホースとしては非常に見事な戦いぶりだった」
額に傷のある白髪の男は、拍手をしながら東城の前に姿を現す。
彼の名は
「隆明……!」
「久しぶりだね、東城美香。元気にしていたかい?」
「……っ」
隆明は爽やかな言葉を交えながらも、どこか見下すような視線を向けて東城を見下ろした。
実に東城の嫌いなタイプである。
しかし、そんな隆明に対して東城の口は思うように動かない。
「そんな怖い顔をしないでくれよ。今まで僕に勝てたことがないからって、そこまで敵視する必要はないじゃないか。あははっ」
東城は過去数回一般戦に挑んだことがあったが、その全てで隆明に負けている。東城はその時の記憶が蘇っているせいもあってか、少しばかりの焦燥を浮かべていた。
「随分と余裕じゃない……。決勝、楽しみにしておきなさいよ」
「……? 決勝?」
東城の言葉に隆明はきょとんとした顔を浮かべる。
「……え、まさか君達、決勝へ進むのかい?」
「……は?」
西地区の面々の眉がピクリと動く。
「いや、こりゃ参った。ははははっ。中央地区、それも凱旋道場と対峙するのを分かっていて戦うつもりなのかい? これまでの地区は僕達と当たると皆すぐに棄権していったのに、
隆明は笑い転げそうになりながら横腹を抱えて後ろに下がる。
「……あまり調子に乗らない方がいいっすよ」
その様子に葵は我慢ならなかったのか、東城よりも先に口を開く。
しかし、隆明の横にいたタブレットを持つ男にその言葉は一蹴された。
「調子に乗っているのはお前達の方だ。西地区」
薄緑色の頭髪に眼鏡を軽く持ち上げながらそう告げる男は、
あの真才ですら落ちた奨励会。そこに在籍していた存在。西地区からすれば完全な未知の敵である。
元奨励会員とはどこかしらでぶつかることを懸念していた東城たちだったが、相手が凱旋道場ともなれば彼らの存在など珍しくもなんともない。
秀治はタブレットを片手に冷静な口調で東城たちに問いただす。
「お前達の棋譜は全て把握済みだ、自滅帝も含めてな。その上で俺達は問題ないと踏んでいる。それが慢心かどうかはさておき、相手の情報は勝負の鍵だ。持っているだけで心構えも変わってくる。──対してお前達はどうだ? 俺達の事を少しは理解しているのか?」
秀治の的確な言葉に、佐久間兄弟と勉は苦い顔をする。
その間を縫って追い打ちをかけるように隆明は告げた。
「まぁ、悪いことは言わないからさ。今のうちに棄権した方がいいよ? 僕達と戦った連中はいつも死んだような目になっちゃってさ、それがきっかけで将棋をやめる豆腐メンタルな子も多いんだ。しかも対局中にやれ何かしただの、不正をしてるだの、イチャモンを付けられることも多くてさ、困っちゃうんだよねホント──」
「──なあ」
隆明が気持ちよさそうに語る中、被せるように放たれた一言は彼らの背後から聞こえた。
その言葉に反応した中央地区の面々は、一体何様の分際で自分達の会話を妨げるのかと後ろを振り向く。
「通れないんだけど?」
そう言って中央地区の面々を前にして堂々と立っていたのは、西地区のエースである真才だった。