第百五十話 視線すらもらえない

 二階堂にかいどう美波みなみは失態を犯した。


 ただの腹いせで何となく。そう、何となくの軽い気持ちで発した言葉。


 一人のクラスメイトを貶めるために吐いた言葉だった。


 ──渡辺真才。クラスでいつも陰にいる存在。


 いつも部活に入らずそそくさと帰っていたその男が、最近将棋部に入り始めた。


 実に陰キャらしいマイナーな部活。しかし、このクラスで将棋部をバカにできる人間はいない。


 何故なら、クラスのカーストトップである東城美香が将棋部のエースを張っているからだ。


 しかし、その程度で真才の評価が二階堂の中で覆ることはなかった。


 二階堂が真才に向ける視線は"嫌悪"に近く、その無能さが足かせとなってイライラを募らせていた。


 ──男のくせに、情けない。


 クラスのカースト上位に位置づく二階堂は、やがてクラスそのものを俯瞰ふかんしてみるようになり、自分のいるクラスが学年で一番評価されるべきだという承認欲求に囚われていた。


 そんな二階堂からすれば、真才の存在ほど気に食わないものはない。


 授業中はぼーっと虚空を眺めていたり、休み時間はスマホばっかいじっている。移動教室でもその呆けた面は変わらず、目立たないように隅で視線を下げて考え事。


 ──イライラする。


 二階堂が真才を嫌いになるまで、それほど時間はかからなかった。


 同じようになまけている三原に嫌悪感を抱かないのは、彼が実力を隠している優秀な生徒だからだ。


 テストではいつも高得点、授業中に教師から指名されても完璧な回答をする。普段眠っていてやる気が無さそうにしているのは、その実力を悟られないためのアピールなのだと二階堂は見抜いていた。


 しかし、真才は別だ。


 あの男には実力というもの自体が備わっていない。生徒として、いや、男としての欠陥品だった。


 多くは喋らず、反論すら飛ばしてこない。陰で何を言われようと見て見ぬフリ。


 ──だっさ。


 二階堂が内心で呟いた言葉は、真才を陰キャたらしめるものだった。


 そう、渡辺真才はクラス内での陰キャ。何の取り柄もない無能。カースト底辺でろくに長所もない凡人以下の存在だった。


 ──それが今、どうしてこうなっている?


「渡辺くん! おはよう!」

「え? あ、お、おはよう……」

「渡辺くん聞いたよ! 県大会優勝したって!」

「ねえねえ! 渡辺くんが日本で一番将棋が強いって本当!?」

「え、いや、そんなわけないでしょ……」


 クラスの雰囲気が一変している。


 別に女子が男子に話しかけること自体は不思議ではない。普段からこのクラスの女子生徒は異性関係なく活発に会話を繰り広げている。


 問題なのは、その話す相手がクラス内で最も影の薄い陰キャである男に向けられていることだ。


 それは彼女らが自身のカーストに彼を含めたという合図。底辺だった男のカーストが急激に上昇したことを指し示すものだった。


「あのさ──」


 二階堂が隣の女子に話しかけようと声を掛ける。


 しかし──。


「あー! 渡辺がカバンに付けてるストラップちょーかわいいじゃん! それどこで買ったの?」


 話しかけようとした女子は二階堂を無視して真才に話しかける。


 ──避けられた。一瞬でそれが分かった。


「これ……? この前後輩の子と一緒に買い物したついでに貰ったやつだけど……」

「えー!? 後輩って女の子から!?」

「う、うん」

「きゃー、やっぱり渡辺くんモテんじゃーん!」

「隅におけないなー! このこのー!」


 ありえない光景だった。


 二階堂は何が起きてるか分からず動揺しながら真才の周りに群がる女子たちを凝視する。


 そして、思わず口に出してしまった。


「な、なんで……」


 女子の視線が一斉に二階堂へと向けられる。


「なんでアンタらそいつに群がってんの? そいつは大会で不正したヤバい男だよ? 日本一将棋が強い? な、何言ってんの?」


 二階堂は動揺しながらも指をさして真才を非難した。


 そこで男子生徒たちも何事かと視線を向ける。


「……うわぁ、まだそんなこと言ってる」

「え?」


 返ってきた言葉は、まるで頭の悪いバカでも見ているかのような声色だった。


「二階堂さんさぁ、黄龍戦見なかったの?」

「おうりゅう……? は……?」


 目の前の女子たちが何を言ってるのか分からない。


 いつもなら情報は共有できているはずなのに、二階堂は知らない。


 そう、二階堂は知らないのだ。


 何故なら、その話題が繰り広げられていた西ヶ崎女子専用のグループチャットでは、既に二階堂だけが強制退会させられているから。


 西ヶ崎高校がトレンドに入り、一時的とはいえ日本中から注目された状況。数多の女子生徒たちは原因究明のためにトレンドを拝見する。


 そこで大々的に報じられた渡辺真才の不正払拭事件。既に十万人以上のフォロワーを抱える自滅帝という存在。


 そして、その事件の根幹にいる真才に対し、二階堂が大々的に咎めるような発言をしたことを彼女達は記憶している。


 条件はそろっていた。


 将棋を知らずとも、これだけ話題になるということは、真才が将来大物になることを簡単に示唆するものである。


 もし自分たちがそんな『ヒーロー』のような男に"不正した"などという言葉を浴びせたとなれば、カーストが落ちるのは当然とうぜん。貶めるなどもってのほかである。


 男女問わず、純粋に、渡辺真才という人物が大物であるということがバレた。


 ただ、それだけである。


「真才くん、黄龍戦で不正してないって証拠上げたの知らないの?」

「自滅帝ってもうフォロワー20万人もいるらしいよ」

「マジ? すっご……」

「ねぇ渡辺くん、アタシのことフォローしてよ~」

「アタシもアタシもー!」

「……あー、まぁ気が向いたらね」

「え? え……?」


 二階堂は狼狽しながらただ呆然と立ち尽くす。


 目の前ではチヤホヤされてる陰キャだったはずの男。


 かたやつい先日まで女子のグループの中で最も発言力を持っていた二階堂。


 二人のカーストは、一瞬にして入れ替わった。


 あまりにも早い、一瞬の出来事だった。


「なんだなんだー? 俺達も話に混ぜてくれよ」

「ちょっとー、そんな人数でこっちこないでよー、渡辺くんが困ってるじゃん」

「てかアンタたちも黄龍戦みてないのー?」

「ライ帝聖戦だっけ? すごい迫力だったよ! ウチ少しだけ将棋できるんだけどマジでびびったもん!」

「マジかよ、渡辺そんな将棋つえーの? 俺チェスならできんだけどさ、将棋はマジでわかんねーのよ。よかったら昼休み一局教えてくれよー」


 真才の周りに群がるクラス中の生徒達。


 まるで転校生が初めて転入してきた日のような囲われ方。


 こんな光景、東城美香以外で見られることはまずありえなかった。


 しかも、真才はその事態に動揺するどころか、興味すら無さそうに返事を返している。


「ウソ……でしょ……?」


 二階堂はその光景に口を開けたまま唖然としていた。


 そして、そんな二階堂の背後から声が掛かる。


「どいてくれる? 邪魔」


 教室の扉の前に立っていた二階堂に辛辣が言葉が浴びせられる。


 振り返ると、東城がいた。


「ご、ごめ──」


 二階堂が謝る前に東城は横をすり抜けていき、すぐさま真才のいる方へと向かっていく。


「真才くん、おはよ!」

「あ、おはよう東城さん、元気だね」

「うんっ!」


 自分の席に着くよりも早く真才に挨拶をしていくカーストトップの存在に、二階堂の頭の中はぐちゃぐちゃになる。


 やがて教室の端にポツンと取り残された二階堂は、まるで今までの真才と同じ構図だった。


「く……っ!」


 声にならない声をあげて真才を睨む二階堂。


 だが、真才はこの一連のやり取りで、ただの一度も二階堂の顔に視線を向けたことはなかった。


 それを知った二階堂は、自身が彼の眼中にすら入っていない存在であることを理解してしまう。


 大物が小物を相手にするはずもない。


 そう、真才はこのクラスに入ってから一度も二階堂に話しかけていなかった。


 他の生徒も同様である。


 その事に対し、二階堂は今まで真才が陰キャであるから他人と接触しないのだと思っていた。


 コミュニケーションもまともに取れず、何ひとつとして取り柄がないからその一歩が踏み出せないのだと。その程度のこともできない、情けない男なのだと。


 ──実際は逆だった。


 真才にとって、自分達こそが眼中に入る存在ですらなかったのだ。


 たかが結果論、されどそれは運悪く証明されてしまった。


 そんな男を不正したんじゃないかと疑い、そのことをクラスの全員が見ている前で公開処刑した。


 相手が底辺だから、何を言っても返ってくることはないと思っていた。


 実際、何も返ってこなかった。反論も文句も、嫌う視線すら向けてこなかった。


 ──相手にすらされていなかったのだ。


 東城の参戦で将棋トークの盛り上がりを増す真才の周辺は賑やかになっており、それを二階堂は眺めることしかできない。


 そしてこれが、真才からの狙ったカウンターであることを、二階堂は知る由もなかった。