第百四十三話 その男、動く

 たったひとつの部活を潰すだけで大金が手に入る。


 動く理由など、それだけでいい。


 宗像銀司。西ヶ崎高校3年2組の担当教師であり、──元銀譱委員会役員。


 彼に下された取引はひとつ、西ヶ崎将棋部の"一時的な廃部"。


 厳密には、渡辺真才の黄龍戦参加を辞退させろ、というものだった。


 宗像は過去、銀譱委員会の高い席に座っていたものの、とある一件で失態を犯してしまい降格処分を受けた。


 表向きには追放され、裏では多少の繋がりがあるものの、その実態は"クビ"と同じである。


 そんな宗像の配属先はどこにでもある高等学校の教師。そして自身がかつて関わっていた将棋関連の仕事──部活の顧問教師である。


 それも兼任とは言えないほどのお粗末な体制であり、将棋部の動向を見守るだけというあまりに小さな仕事だった。


 ──しかし、そんな宗像に大きな仕事が舞い込んでくる。


 それは、自身の担当する将棋部の廃部。これをこなすだけで宗像銀司を銀譱委員会の"元居た席"に復帰させる、というものだった。


 曰く、銀譱委員会にとっての最悪の悪循環シナリオとは、銀譱委員会を通さずに結果を残すような『棋界を荒らすイレギュラーの乱入』である。


 それこそ、玖水棋士竜人や香坂賢人のような怪物。誰の力も借りずに自然と大成し、誰の力も借りずに自然と頂点の座に着くような英雄のことである。


 つまり、未来ある数多の棋士を手中に収めたい銀譱委員会からすれば、どこにも所属していない支部からその英雄が生まれるのはあまりにも都合の悪い存在なのではないか。


 ──と、宗像は考える。


 現状、西ヶ崎高校は連盟所属の『西ヶ崎支部』であり、利権争いの真っ最中である二大組織にくみしているわけではない。


 連盟を置き去りにして急成長を遂げる第十六議会と銀譱委員会。いつの日か、棋界がこのどちらかに吸収されるのは目に見えている。


 しかし、現状は板挟み。見込みのない西地区の中でも特に活躍の機会が無かった西ヶ崎高校は、顔の良い東城美香を起点に場を盛り上げる役、という見方しかされず、今まで放置されてきた。


 ──そんな時に現れたのが『渡辺真才』というイレギュラーである。


 彼の存在が露見したのは黄龍戦の地区大会。それまでは代わり映えもせず東城美香をエースとして出陣させ、各々それなりの成績を残して去っていくいつもの西ヶ崎高校が、全く知らない無名の新人選手を大将として起用した。


 東城美香の性格を知っている者からすれば、彼女が自分の座を易々と明け渡すとは思えなかった。


 神童の席を奪い、大将の座に着く平凡な見た目の新人。


 彼は一体何者なのか、そもそも将棋歴はどのくらいなのか、そして本当に強いのか。


 ──結果は火を見るより明らかだった。


 独特な戦い方で次々と相手を圧倒。来るもの全てを真正面から叩き潰し、果てにはあの天竜一輝にすら膝をつかせる所業。


 銀譱委員会のターゲットが、凱旋道場から西ヶ崎高校へと変わった瞬間だった。


「──とはいえ、本部の連中は渡辺真才を高く買い過ぎているようだが」


 宗像は銀譱委員会から送られてきた資料を拝見しながらそう呟く。


 現在、黄龍戦は一部の例外を除いて、すべて銀譱委員会の傘下支部にある道場が日本一位を勝ち取っている。


 その功績もあってか、ここ数年での銀譱委員会への入門者数は倍率がかかるほどのものだった。


 そして、そんな銀譱委員会は多くのプロも輩出している。


 凱旋道場などの別格を除けば、他の道場に入るよりも銀譱委員会の傘下にある道場に入った方がプロ棋士になれる確率が格段に上がるのは、今や誰もが知る事実である。


 そうして成長を続けることで、やがて道は銀譱委員会一色で染まり、多くの者が銀譱を求め始め、組織として更なる拡大へと繋がる。


 まさしく、棋界を乗っ取るのも時間の問題だ。


 現代では昔に比べてネット将棋が盛んになり、その反動で大会に来るものがほとんどいない。そして同様に、各地で開催される地区大会すら減少傾向にもなっている。


 そこで銀譱委員会は、奨励会に際する大会での"成績免除"を提案した。


 実力が備わっている者であれば、大会の成績、プロ棋士の推薦がなくとも奨励会を受けられるシステムを導入し、銀譱委員会が独自に推薦する者であれば入試費用も負担する。


 まさに、プロを目指す将棋指しにとっては希望となる存在だろう。


 そうして成長を続けていった銀譱委員会は、今や将棋界の裏の基盤を支える大きな組織として名を馳せている。


 ──しかし、現実問題、そんな簡単に事が進むはずもない。


 銀譱委員会の成長は目まぐるしいほど素晴らしく、誰もが見惚れるくらいに自然とのし上がっていった。


 そう、不自然すぎるくらいに自然とのし上がっていったのだ。


 それは、同じ組織の席に座る宗像から見ても疑問を持つくらいに順調な成長だった。


 何かあるのは間違いない。


 だが、その側についている宗像にとってはそれこそどうでもいい問題、些事である。


「宗像先生、そろそろ授業ですよ」

「ん? ああ」


 職員室で資料を読み耽っていた宗像は、同じ学年の女性教師に声を掛けられ時刻を確認する。


(まあ、こんな簡単な仕事で金が貰えるとは我ながら運がいい)


 宗像は次の授業のための教材を手に持つと、機嫌よくその場から立ち上がる。


 銀譱委員会から出された条件は2つ。全国大会が始まるまでに渡辺真才を脱落させること。もしくは西ヶ崎高校の将棋部を廃部にし、大会への出場を無くすこと。このどちらかを達成すれば、宗像の仕事は完遂となる。


 しかし宗像は用心深く、この2つの条件をどちらとも達成させることに専念した。


 特に渡辺真才に関してはたやすいものだったと、宗像は半ば呆れる。


 自身が役員時代に通じていた香坂賢人の妹、香坂賢乃を使うことであっという間に陥落。環多流との一件ではあれだけ派手に反撃をかましておきながら、先日の大雨の際に窺えたあの絶望に染まった表情──。


(所詮はガキか)


 宗像は胸の内でそう呟きながら鼻で笑った。


(いかんな、今は授業が先決だ)


 宗像は教材を持ちながら職員室を出て、次の授業を行うための3年の教室に向かおうとする。


 しかし、廊下を数歩ほど歩いた辺りで一人の生徒が視界に入った。


「あ、おはようございます。先生」

「なっ……」


 ──そこには、渡辺真才が立っていた。