第百十話 それで明瞭となった実力差

 メアリーは、来崎の瞳を覗いて確信する。


「……」


 勝絶しょうぜつに溶け込むような水底の光、全身の感覚が研ぎ澄まされた極致へ至る眼の色。


 実に数年ぶりとなるその既視感に、メアリーは冷や汗を浮かべた。


(ミズキ……先生……)


 天才の眼に映ったのは、そんな自分を育て上げた更なる天才の影である。


 ……だが、メアリーは首を振って否定した。


(──ワタシが、こんな凡人に臆するはずがない──ッ!)


 メアリーは戦意を取り戻し、残された全てのリソースを最善の手に向けて考える。


 一手も読み違えてはならない局面。早指しをする度に形勢が不利になっていくのを肌で感じながら、それでもメアリーはその手を止めない──。


「──ッ!」


 一点集中。メアリーの思考は一瞬にして加速の域を超え、忘我となって目の前の事柄以外を排除する。


 凡人にできて、天才にできないことなどない。来崎が極限に至ったというのなら、自分もまた同じ領域に至れるはずである。


 そんな理想論がまかり通ってしまうのが、メアリー・シャロンの恐ろしいところだった。


(凡人の最善手なんかに、ワタシの──神の一手は超えられない──!)


 15分の長考。残された時間を全て使い切り、メアリーは逆転手となる一手を放つ。


 ──同じゾーンであっても、才能の差が圧倒的に開いていればどちらが勝つかなど明白である。


 凡人と天才が同等の努力をして凡人に勝ち目がないように、凡人と天才が対等にゾーンに入れば、凡人に勝ち目などない。


 メアリーによる、全てを超越した一手が繰り出される。


 メアリーにとっての読みの全て、終局まで届く完璧な一手。来崎にとって永劫に届くことのない思考の先の先を超えて、メアリーの勝負手は盤上に放たれた。


「……え?」


 メアリーが時計を叩いた瞬間に、来崎も時計を叩き終わる。


 一瞬のことで訳が分からず視線を盤上に移すと、来崎が既に手を指し終えていた。



『将棋配信者ライカの応援スレPart13』


 名無しの639

 :『評価値』後手+535 来崎夏・優勢


 名無しの640

 :『評価値』後手+511 来崎夏・優勢


 名無しの641

 :ついにメアリーも持ち時間使い切ったか


 名無しの642

 :ここからは秒読みの勝負やな


 名無しの643

 :そういやライカが久々に評価値落としたな


 名無しの644

 :本当にちょっとだけどな


 名無しの645

 :あれだけ考えた渾身の一手指しても評価値ほぼ変わらないんだから、作戦勝ちみたいなもんよ


 名無しの646

 :ライカがしれっとノータイムで反撃してることにはもう誰もツッコまないのか……



 それはまごうことなく、メアリーにとって渾身の一手だった。


 自陣に守りを利かしながら、敵陣への攻めを繋げ、なおかつ相手に受けを強要する形を作って守勢しゅせいを継続させる。


 目の前の一手を最善かどうかの計算で読み解くのではなく、遥か先の未来を予測しながら本当に突き詰めた最善手を指す。


 その勝負手の裏に隠された真意は、攻めでも守りでもなく、将来自身の王様が上部へ逃げる際の盾の役割を担っていた。


 いわば、それら最善手に思える構想は全てブラフ。一見すると攻防によく利いた一手であるが、実際はもっと先の局面で活躍するために放った一手である。


 来崎が完璧に受けてくることは予想できていた。はたまた攻守をひるがえすように防御を放棄して猛攻してくることも予想できていた。


 ──まさか、逃げ道を塞ぎに来るとは予想できるわけがない。


「……な……っ…………」


 来崎の切り返した手は香車の筋に銀を捨てる一手。


 それはどうみても意味の無いところに駒を捨てる一手であり、取ったところで後続手があるわけでもなく、ましてや放置したところでろくな攻めに繋がらない凡手である。


 ──しかし、その手はメアリーの想定していた唯一の"入玉"の筋を消している。


(嘘……でしょ……?)


 心を読まれている気がした。


 それは、メアリーの放った手の真意を知らなければ決して指せない一手である。最善を考えれば考えるほどたどり着きにくい一手である。


(なんで、どうやって……?)


 来崎夏は、ゾーンに入っているのではないのか?


 ゾーンに入っているのであれば、最善手を考えるのではないのか?


 メアリーの理論武装に風穴が開く。これまでのありとあらゆる戦いで知略を築き上げてきたプライドに傷がつく。


 どうして自分の真意が、こんな凡人に看破されているのか。


 驚いているのも束の間、対局時計を一瞥すると秒読みが残り数秒のところまで迫っている。


「っ……!」


 メアリーは再び限界まで考えて来崎の手を上回ろうとする。


 しかし、そんな熟考して指した手すら、来崎はノータイムで切り返してくる。


「貴様……ッ!!」


 ここにきて狙っていたかのような時間攻め。それもメアリー自身の手を全て見破った上での時間攻めである。


 来崎自身も秒読み40秒の世界に閉じ込められている。いくら早指しを狙うとはいえ、考え無しのノータイム指しはあまりにリスクが大きい。


 なのに、来崎の手は完璧を通り越してメアリーの思考を見通していた。天才であるはずのメアリーを、完全に上回っていたのである。



 名無しの660

 :『評価値』後手+575 来崎夏・優勢


 名無しの661

 :『評価値』後手+584 来崎夏・優勢


 名無しの662

 :『評価値』後手+612 来崎夏・優勢


 名無しの663

 :『評価値』後手+1283 来崎夏・優勢


 名無しの664

 :『評価値』後手+1532 来崎夏・優勢


 名無しの665

 :うわああああああああああああああああああwwww


 名無しの666

 :早指しで一気に差がついたwww


 名無しの667

 :いけぇえええ!!ライカあああああああああああああ!!!


 名無しの668

 :『評価値』後手+1830 来崎夏・勝勢


 名無しの669

 :ついに1000点きたあああああああああああああああああ


 名無しの670

 :もう1200点になってるwwwww


 名無しの671

 :『評価値』後手+2003 来崎夏・勝勢


 名無しの672

 :1200点きたーーーーー!!!!


 名無しの673

 :1800点になってるぞ!!


 名無しの674

 :いやもう2000点超えてて草


 名無しの675

 :なんだなんだ!?いきなりとんでもない早指しだな!?


 名無しの676

 :来崎に早指しで挑むとか愚かなことを……


 名無しの677

 :早指しの魔境で育った人間だぞ、秒読みなんて庭みたいなもの


 名無しの678

 :来崎相手に時間使い切った時点で悪手なんだわ、メアリーさんよぉ!


 名無しの679

 :来崎が待っていたかのようにノータイム高速指しを始めてて草


 名無しの680

 :速すぎて追いつけないから、とりあえず最新のだけおいとく

  『評価値』後手+2389 来崎夏・勝勢


 名無しの681

 :>>680 oh……


 名無しの682

 :>>680 これが10分前まで瀕死だった女とは思えん


 名無しの683

 :>>680 メアリーは凄かった。ただ相手が悪かった、悪すぎた



「そんな……ワタシの手が全部見切られて……!?」


 天才に唯一欠けているもの、それは天才ゆえにおざなりになってしまう敗因の矯正きょうせいである。


 将棋は互いのミスによって決着が決まるゲーム。つまり、勝因について考えることはなく、常に敗因について反省するものである。


 勝ち続けた者には敗因がない。ゆえに欠点があっても気づきにくく、それらを直す機会もない。


 どこが悪かったのか、どこで逆転されたのか。それを対局後に反省する"感想戦かんそうせん"というものがある。


 メアリーは感想戦をほとんどしてこなかった。自分が勝った試合を見直す必要などどこにもないからだ。


 対する来崎は感想戦を一度たりとも欠かしたことはなかった。対局を誰よりも重ね、その対局で誰よりも負け続けてきたからだ。


「ありえない、ありえないわ……ッ!」


 月に80時間以上将棋の勉強に費やしてきたメアリーは、周りからも将棋のし過ぎだと注意されるほどの将棋好きだった。


 ──対する来崎は、月に400時間以上もの時間を将棋に費やしている。


 その異常とも思える努力から導かれる一手は、天才の発想などことごとく打ち破る。


 いかなる凡人であったとしても、努力を積み重ねた先の勝負は、常にその努力に費やした時間の差異でしかなく、またそれによって凡人が天才に勝てない道理など無い。


 それは──メアリーの才能を、来崎の努力が上回っただけの話である。


(──! まさか、あの違和感の正体は、このための一手隙《いってすき》を狙って……!?)


 最終盤のスッキリとした局面で、メアリーはついにその濃霧の中にある真実を知る。


 メアリーが優勢に思える局面でAIの評価値が来崎に振れていたのは、互いが最善を尽くし合った最後の局面で、メアリーの王様が来崎より一手早く詰んでしまう形になっていたからである。


 だがそんなものは、あの複雑難解な局面からはどうやっても導き出せない答えでもあった。


「そんな……だ、だってありえないじゃない。あの手は、あの分岐は、絶対にどこかで中断する必要がある! 他に読む手だってあったはず……! あれは……人の思考で読める範疇のものじゃ──」


 それは天才メアリーなりの言い訳だったのだろう。


 その思考には至れないという、彼女なりの道理というものがあったのだろう。


 だが、そんなメアリーの必死の訴えを聞いた来崎は、それを表情に出すでも、反論するでもなく、ただ何を言っているのだろうと軽く首をかしげた。


「あ……あ……」


 それが、メアリーの心を完全に折ったのだった。