第37話 『風をきって』

「アサミ、あの……」

「行かないでよ!」


 僕の言葉を遮って、アサミは叫ぶ。


「梨川くんが行っても、関係ないでしょ!」

「それは……そうかもしれない」

「それに、今からじゃ間に合わないかもしれないでしょ!」

「それも……そうかもしれない」

「じゃあ……」

「……でもっ!」


 今度は、僕がアサミの言葉を遮った。


「それでも、僕は行かなくちゃいけないんだ!」


 そう告げ、彼女の横をすり抜ける。


「梨川くん……」


 力無い声。

 普段のアサミからは到底考えられない。

 僕は足を止めると、背中越しに彼女を見た。


「アサミ……。こんな僕を好きになってくれて、本当にありがとう」


 そう伝えて、僕は部屋を飛び出した。

 後ろでアサミが何か言っていたけれど、僕はもう振り返らなかった。




―――




「梨川……くん……」


 アサミの声が、部屋の中に響く。

 その場に立ち尽くす姿に、レイジは困ったように頭をかいた。


「あ、あのさ……」


 うつむき震えている彼女。

 その背中に、恐る恐る声をかける。


 その瞬間――


「……何よ、それ!」


 不意にアサミは叫んだ。


「『好きになってくれて、ありがとう』ですって!? 私のこと、バカにしてるの!?」


 震えていたのは、どうやら怒りをこらえていた為らしい。

 驚きの表情を見せていたレイジだったが、やがて口から安堵の吐息が漏れた。


「なんだよ~、泣いてるのかと思って心配したぜ」

「バ……バッカじゃないの!? 何で私が泣くのよ!」


 慌てたように振り向いたアサミは、強い口調で否定する。

 確かに、その瞳に涙はない。


「……いいわ! 私はもっと素敵な女性になって、彼に、今日のことを後悔させてあげるんだから!」

「ははっ……委員長らしいな」


 手を強く握り締め、天をにらむその姿に、レイジは軽く笑う。


「委員長は、俺のスマホの番号知ってたよな?」

「え……? 知ってるけど……?」

「じゃあさ、辛いときは、いつでも電話してこいよ。相談くらい乗るぜ?」


 そう言ってポケットのスマホを探るレイジだったが……。


「……あれ!?」


 ポケットには何も入ってない。


「マ、マジかよ!?」


 慌てて他のポケットも探ってみるが、やはりそこにもスマホの姿はなかった。


「落ち着け、こういうときこそクールにだ!」


 レイジは深呼吸をすると、眉間に指を当てて記憶を探り出す。


「ガクとマキは俺のスマホで話をしてたんだよな。それで電話が終って、その後は……」


 ややあって……。


「……あっ!! あいつ、自分のポケットに入れやがったな!」


 電話の後、確かにガクは自分のポケットにスマホをしまっていた。


「あまりに自然だったから、気が付かなかったぜ……」


 レイジは、頭をかく。


「まぁいいや……それでさ、委員長!」

「な、何よ……?」

「何だったら、今から気晴らしに付き合わないか?」


 そう言って、レイジはアサミの肩に手をかける。


「家に帰っても寂しいだけだろ?」


 笑顔を見せた瞬間――


「バ……バカにしないでよ!」


 飛んでくる、アサミの平手打。

 部屋の中に、渇いた音が響き渡った。


「私……帰る!」


 アサミは足元のバスケットを拾い上げると、走りながら部屋から出て行く。


(何よもう! 人を馬鹿にして!)


 階段を駆け降り、怒りに任せて玄関の扉を開いた。

 その瞳に、街の風景が飛び込んでくる。

 来るときは、あんなに眩しく見えた街並みも、今はどこか色せて見える。


「……ふぅ」


 アサミはため息をつくと、静かに玄関の扉を閉めた。


「いいわ……。きっと、もっと素敵な人が、どこかで待ってるはずだから」


 そうつぶやくと、アサミは歩き出した。


「梨川くんなんかより、もっと素敵な……」


 しかし……。


「梨川くん……なんか……」


 その歩みは次第に遅くなり……。


「梨川くん……」


 その足が完全に止まったとき――


「う……ううっ……」


 その口からは、嗚咽が漏れていた。

 涙は頬を伝い、こぼれ落ちた滴はアスファルトに黒い染みを作っていく。


「泣く……つもりなんて……なかったのに……」


 悲しみの声が響く。

 だけど、その言葉に応えてくれる者は、誰もいなかった。




 ――不意に静けさが訪れたガクの部屋。

 その中で1人たたずむレイジは、机のそばの窓を開けた。

 外を見るが、アサミの姿はもう見えない。


「大丈夫かな……」


 そう、つぶやいたとき、ふと机の上のノートが目に入った。

 そのそばには、ペンも転がっている。

 レイジは、ノートを手に取ると、何の気なしにページを開いた。


「……これ、詩か?」


 ノートに書かれたガクの文字。


「へぇ……」


 レイジが思わず息を漏らした、そのとき――


「あれっ?」


 背後から響く声。

 レイジはノートを閉じると振り返った。


「レイジさんしかいないの? お兄ちゃんと、クラスメートの女の人は?」


 そこには、ガクの妹であるエリカが立っていた。


「あ、ああ……。ちょっと色々あってね……」


 苦笑いを浮かべるレイジ。


「あ……レイジさん、そのほっぺ……」


 真っ赤な手形が付いている頬に、エリカは大きな口を開けて驚きを見せる。


「ちょっと待ってて!」


 軽い足音を立てて部屋を飛び出していく。

 程なくして、再び姿を現したときには、その手に濡れタオルを持っていた。


「これ……どうぞ」

「ありがとう、エリカちゃん」

「もう少し落ち着かないとダメだよ?」

「はははは……」


 自分より年下に諭され、もはや笑うしかないレイジであった。


「……って、もしかしてガクに用事だった?」

「あ……うん、お兄ちゃんに郵便が来たの」


 エリカは、手にした封筒を振って見せる。


「まったく、お兄ちゃんはレイジさん置いて、どこ行っちゃったんだろ」

「う~ん……しばらく帰ってこない……かな」

「えっ!? そうなの!?」

「アイツは、また走り出したからさ」


 レイジは、再び窓の外に目を向けた。

 そこには、夏の日差しに照らされたアスファルトの道が輝いている。


(ガク……頑張れよ……)


 レイジは、おそらくこの道の先にいるであろうガクに、想いを馳せた。


「……っと、エリカちゃん」


 首を傾げているエリカに、レイジは視線を戻す。


「悪いんだけど、電話貸してくれないかな」

「えっ、電話?」

「うん、俺のスマホは持っていかれちゃってさ……」




―――




 ――照り付ける太陽。

 熱気に満ちたもやの中。

 走り続ける1つ影があった。


「何でこんなに暑いんだ!」


 僕は、太陽に向かって文句を飛ばす。

 当然ながら、太陽からの返事はない。

 い、いや……。

 むしろもっと暑くなったような気がする。


「……って、今はそんなこと気にしてる場合じゃなかった!!」


 僕は、頭を振った。


「とにかく、急いで駅に向かわなきゃ!」


 大通りに出た僕は、真っ直ぐにバス停へと向かう。

 ここから出るバスに乗れば、駅まで30分でつく。

 1時には、十分間に合うはずだ。


 だけど……。


「ああっ!?」


 ブロロロロ……。


 僕が辿り着く前に、1台のバスが大きなエンジン音を立てて走り出した。


「ま、待って!! 乗ります!! 乗ります!!」


 慌てて追い掛ける。

 だけど、バスのテールランプはどんどん小さくなっていく。


「ちょ……間に……合わなかった……!」


 僕は肩で息をしながら、バスが走り去った方向をにらんだ。


「くそっ……次のバスだ!」


 慌ててバス停に戻り、時刻表をのぞき込む。

 どうやら、次のバスは20分後になるらしい。


「って、それじゃ間に合わないよ!」


 それならタクシーで!


 瞬時に浮かぶ案。

 だけど、財布の中身を見た僕は、力なく首を横に振った。


「小銭しか入ってない……」


 じゃあ、どうする!?


 僕に残されたもの……。

 それは、この足だ!


 足なら、バスじゃ通れない道だって行くことができる!

 近道をすれば、1時までに着ける可能性は……。


 十分にある!


 僕は前をにらんだ。


「行くしかないんだ!」


 大地を踏む足に、力が入った。



 それから10分程して……。


「ぜはーっ! ぜはーっ!」


 僕の熱い息が、辺りに響き渡った。


 病み上がりの体で、灼熱の大地の上を全力疾走し続ける。

 これが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。

 暑さは、急激に僕の体力を奪っていく。

 心臓の鼓動は今までにないくらい激しく、それに伴って頭痛までしてきた。

 熱中症ってやつだろうか……。


「で、でも……止まるわけにはいかないんだ!」


 必死に顔を上げる。

 そんな僕の目に、一台のバイクと、それにまたがるライダーの姿が映った。

 黒いフルフェイスのヘルメットに、黒いライダースという格好。


「暑くないのかな……」


 思わずつぶやいた僕の前で、そのライダーはヘルメットを取った。


「あっ!」


 そこに現れた顔に、僕は見覚えがあった。


「カズマ……」


 そう、それは僕が苦手とするクラスメート、新発田しばた 一磨かずまだった。


 カズマは、相変わらず僕を鋭い目でにらんで来る。

 でも、今の僕はカズマに構ってる暇なんてないんだ!


 僕が、横をすり抜けようとした瞬間――


「おい、待てよ!」


 カズマは僕の肩に手をかけた。


 こんなときに!

 これだから不良ってやつは……!


「何!? 今、急いでるんだ!」


 少しぶっきらぼうに言った僕を、カズマはジロリと値踏みするように見る。


「俺は、中途半端なヤツが嫌いだって言ったよな?」

「……知ってるよ」


 カズマの視線に負けないよう、僕もにらみ返す。


「……だから、僕のことが許せないって言うんでしょ」

「ああ……だから……」


 カズマの体がユラリと動く。


 殴られる!?

 それならそれでもいい!

 早く終わらせてくれ!!

 僕は、ミサキのところに行かなくちゃいけないんだ!!


 そう思った瞬間、カズマが僕に何かを投げてきた。


「うわっ!?」


 咄嗟に目をつぶりながらも、僕はそれを受け止める。


 な、なんだ……?


 ゆっくりと開いた瞳に映るもの、それは……。


「ヘルメット……?」

「今のお前は半端じゃねぇ」

「えっ!?」


 カズマは、あごで後ろのシートを指した。


「乗れよ! 駅まで送ってやる!!」



 駅へと続く通りを疾走する1台のバイク。

 そこには、カズマと僕の姿があった。


「ねぇ……」


 カズマにしがみつく格好の僕は、運転の邪魔にならないよう、おずおずと声をかける。


「何でカズマは、僕がさ……」

「何を言ってるか聞こえねーよ!」


 その瞬間、カズマの声が響く。


「何で、駅に向かってるのを知ってるの!」


 エンジンの音と、風を切る音に負けないよう、僕は声を張り上げた。


「ああ……市井レイジから電話がかかってきたんだよ!」

「えっ、レイジが!?」

「あいつが、あまりに必死に頼むもんだからよ」

「そうなんだ……」


 少しだけ目頭が熱くなる。


「そういやお前……」

「うん?」

「自分のこと、“僕”って言うようになったな?」

「あっ……こ、これは……!」


 合宿所でミサキに言われてから、ずっと“僕”を使ってきたため、他の人たちの前でも自然と出てしまったのだろう。


「あっはっは! いいじゃねーか! そっちの方が似合ってると思うぜ!」

「……え?」


 確実に馬鹿にされると思っていただけに、その言葉は意外だった。


「あ、あのさ……」


 僕は、恐る恐る声をかける。


「カズマって……もしかしたらいいヤツ……?」

「く、くだらねーこと言ってんじゃねーよ! 叩き落とすぞ!」


 恥ずかしそうに上擦る声。

 その声に、思わず可笑おかしさが込み上げてくる。


「あはははははは!」

「テ、テメー、笑ってんじゃねーよ!!」


 照れたようなカズマの声。

 だけど、それも、いつしか笑い声へと変わっていった。