「おう、兄上。なぁに、ちょっとしたご挨拶をしていただけだ。今後の義兄上にな」
「……」
不機嫌そうに雨月を睨めつけた晴斗を見て、美弥は初めて見る晴斗の表情に怖くなった。
「じゃあな、美弥」
だが雨月は気にした様子もなさそうに、ひらひらと大きな手を振ると歩き去った。
そこへ晴斗が駆け寄ってきて、美弥の両肩にそっと手を置いた。
「大丈夫か? 何か言われたのか?」
「えっと……晴斗が……当主の座を確固たるものにするために、僕を伴侶に選んだって……」
美弥が正直に述べると、晴斗が眉間に皺を刻んだ。
「そんなはずがないだろう。予言の話を聞いたんだな?」
「うん」
「俺はあれは、俺が美弥に惚れるという正しい予言だったとは思っている。だが、俺は当主の座よりも美弥の方が大切だ。無論、父の遺言であるし、俺は領地の民も、帝都の人々も守りたいが、誰よりも美弥を大切にしたい。だからそういう意味では、神屋の当主であることにこだわりはない」
断言した晴斗は、そのままぎゅっと美弥を抱きしめた。突然のぬくもりに、美弥は硬直する。勢い余った様子の晴斗は、美弥の華奢な体を強く抱き寄せている。
「美弥、すぐに信じて欲しいとは言わない。だが、これだけは覚えておいてくれ。俺は本当に美弥のことが好きだ。愛している」
そう言ってから、晴斗は美弥から体を離し、美弥を腕に閉じ込めたままで、美弥の顔をじっと覗き込んだ。その真摯な瞳に嘘は見えない。思わず美弥は頷いた。
「うん……別に、疑ったわけではないんだけど……」
ただ、嫌われ者の猫神の末裔の己が選ばれた理由が、何も無いと聞くよりは、すんなり来てしまっただけだった。
「……晴斗は、僕のことを、ほとんど何も知らないでしょう? だから、今でも愛してくれる理由が分からないんだよ」
「それは……いつか、必ず話す」
晴斗はそう言うと、美弥の額に己の額を当てた。
「信じて欲しい」
その根拠がない、と、美弥は言いかけたけれど、口には出来なかった。肌から伝わってくる温度が、あんまりにも心地よかったからだ。
「分かったよ。だけど、今の僕のことを知っても、好きでいてくれるか分からないから……僕のこと、ちゃんと見てね? 僕も、晴斗のことを知りたい」
「ああ、勿論だ。俺は、きちんと美弥を見る。美弥が美弥だから、俺は好きなんだと、その上で改めて伝えるとする」
晴斗はそう言うと額を話し、美弥を腕から解放した。
「美弥、今日は昼食も共に出来るから、一緒に取ろう」
気分を切り替えるように、晴斗がそう述べたので、美弥は頷いた。
その日の午後から三十日にかけては、晴斗はずっと美弥のそばにいた。たったの二日であるが、見合いが終わってからこうして一緒に過ごす内に、美弥は晴斗の存在に幾ばくか慣れた。晴斗がそこにいることが自然に思えるほどになった。
今も、二人で寝室で布団に寝転がりながら、話をしている。
「明日は大晦日だな」
「そうだね。神屋のお家では、蕎麦は食べる?」
「ああ、年越し蕎麦も食べるし、おせちの用意もするぞ。午前中の内に入浴を済ませて禊ぎもする」
「そうなんだ」
「一日が寝正月という部分だけが、一般とは異なる。主神の末裔である神家に連なる者は、挨拶回りをすることになっていてな。俺も一日中、挨拶をして回る。そして御神酒をごちそうになると決まっているんだ。だから、こちらへの年始客の相手は叔父上に頼んである」
晴斗は両肘を布団につき、両手を頬に当てながら美弥を見た。
枕に頭を預けて、美弥はそれを眺めている。
「だから一日は俺は空ける。待っていてくれ」
「うん」
そんなやりとりをしてから、この日も眠りについた。
そして二人は、十二月三十一日、大晦日を迎えた。
午前中の内に、禊ぎを兼ねるとしての入浴を終えた美弥は、この日は特別な着物を纏うとして用意された和服を着た。黒い羽織には、白い雪と紫色の花、銀糸で猫が刺繍されている。袴の色は灰色だ。
晴斗の着物には、来年の干支である辰――龍が描かれている。
二人はそれぞれ纏った着物姿で、いつもの食事の間ではなく、お見合いをした一階の奥の和室へと向かった。そこには、先日美弥が顔を合わせた雨月の姿もあった。
「よぉ」
雨月に声をかけられて美弥がびくりとすると、庇うように晴斗がその前に腕を出した。
「雨月、必要以上に俺の伴侶に絡まないでくれ」
「まだ結婚してないだろ。俺にだってチャンスはある。早霧叔父上だってそれは同じだもんなぁ?」
雨月がそう言うと、座っている一人の青年に顔を向けた。
二十代後半くらいの青年で、側部と後ろが長めの黒髪をしており、前髪は分けていた。
声をかけられた早霧は、ぎろりと雨月を睨めつける。それから忌々しそうな眼差しを、晴斗と美弥へと向けた。目の下にはクマがあり、どこか陰鬱そうな印象を与える。
「俺は子供には興味が無いんだ。余計な戯れ言を放って、俺を巻き込むな」
ぴしゃりと言い切った声は低い。
「美弥、あちらが俺と雨月の叔父の早霧叔父上だ」
「――神屋早霧だ。宜しく頼む」
「よ、よろしくお願いします。猫崎美弥です」
慌てて美弥は頭を下げた。すると早霧が顎で頷いた。
「座ろう」
その後晴斗に促されて、美弥は席に着いた。すると雨月が言った。
「他の候補者は呼ばねぇんだから、やっぱり猫神の末裔は特別扱いだな」
「当然だろう、正式な許婚であり、既に神屋の一員に等しいんだからな」
晴斗が言い返すと、雨月がニヤニヤと笑った。美弥は居心地の悪さを感じる。だから正座した膝の上で手を握っていると、晴斗が隣からそっとその手に触れた。ハッとして晴斗を見ると安心させるように笑ってくれたため、美弥も小さく笑い返す。晴斗のこうした気遣いは、ここ数日で好きになったところの一つだ。
「失礼致します。蕎麦をお持ち致しました」
そこへ若隅が声をかけた。料理人の和木が隣にいる。おせち類は、既に卓の上に並んでいた。
「どうぞ」
和木が美弥の前に蕎麦を置く。こうして一人一人の前に、蕎麦の器が置かれた。
そして若隅と和木が下がっていく。
その後、除夜の鐘が響き始めた頃、一同で蕎麦を食べた。
海老の天ぷらが載っている蕎麦は、非常に美味だった。
「しかし俺達が、こうして顔を付き合わせるなんていうのもな。兄上も叔父上も、仕事以外で一緒にいたいとは思わねぇだろ?」
雨月が吹き出すのをこらえるようにそう述べると、早霧が再びぎろりと睨む。
「余計なことを……別段、俺は恨みも含みもない。晴斗がしっかりした当主となるよう、支えはするというだけだ。取って代わろうとしているわけではない」
それを聞くと、晴斗がため息をついてから頷いた。
「俺だって叔父上に含みはない。助力してもらい、ありがたく思っている」
「へぇ。上辺はお綺麗なことで」
雨月はそう言ってから、美弥を見た。
「美弥、上辺に騙されるなよ? 俺のような正直者の方が、どんなにいい男かその内気がつくはずだ」
「黙れ雨月。美弥は俺の伴侶だ。そういう言動は慎んでくれ」
「へいへい」
美弥は話しかけられていたが、晴斗が遮ったため口を挟む間が無かった。
その内に、除夜の鐘が鳴り止んだ。
「あけましておめでとうございます。いやぁ、去年は父上が亡くなったから、この言葉を言うのも久しぶりな気がするな」
雨月の声に、早霧と晴斗も『あけましておめでとうございます』と述べたので、美弥も小声で新年の挨拶をした。
このようにして、神屋家に年始が訪れたのである。