クリスの家を早い時間に出たリルだったが、リルを乗せた空竜は、家とはまったく逆の方角へと移動を始めた。
(……寄り道、でしょうか?)
物陰からリルを覗き見ていたヒバナは、指先で顎を撫でると、几帳面な仕草で首を傾げる。
(リル様も私の玖斬様の御子ともあれば、玖斬様譲りの奔放さを受け継がれていて当然という事ですね!! 鬼にとって自由な心は尊重されてしかるべき物!! これは大変歓迎すべき事です!! この火端、どこまでもお供いたしましょうとも!!)
内心騒がしく、しかし実際にはほんの僅かな音しか立てずに、ヒバナは空竜の後を、目にも止まらぬ速度で疾っていた。
リルの辿り着いた城は、初めて訪れた時と同様、シンと静まり返っていた。
リルは耳をよくよく澄ませて、ようやく二つの呼吸の音を拾う。
「地図は持って来たんだけどー……」
カロッサの描いた内部の見取り図。リルは、丸めたそれを口元に当てて、可愛らしく、くりっと首を傾げた。
どうやら、地図があっても正しく使えないらしい。
「まあいっか。何とかなるよね!」
ニコッと微笑んで、リルは城の門へと足を進める。
「キュイ」
と、同意した空竜は、ミニサイズに縮んでその腕に抱かれている。
「うん、そうだよね。行ってみよーっ」
結界に触れると、遠くでチリチリンと甲高い鈴のような音が鳴った。
(侵入者だよーっていう、お知らせなのかな?)
キョロキョロと辺りを見回しながら、リルが外庭を抜ける頃には、奥から誰かの駆けてくる足音が近付いてきた。
「あ……」
サラは、リルの姿に気付くと足を緩め、纏っていた殺気のようなものを収めた。
「こんにちは。あ。お邪魔してます。かな?」
今まで使った事のなかった単語を、リルが頭の隅っこからなんとか引っ張り出してくる。
サラが、おずおずとリルの顔を……と言っても目を合わせるのは恥ずかしいのか、口元あたりを見る。
「……」
「ありがとう」
リルがふわりと微笑む。
「…………」
「レイは……元気には、なったよ。その後は天界に連れて行かれちゃって、分かんないんだ。ごめんね」
「!……」
「ボクも、ちょっと心配だけど……でも、きっと、何とかなるよ」
悲しそうな顔をしていたリルが、それでも、ニコッと笑った。
サラは、ずっと昔にこんな表情を向けられた事があった。
サラがリルくらいの頃、翼の生えてきたサラを孤児院から逃してくれた人が、最後にこんな顔をしていた。
当時はまだ、それがどんな気持ちで向けられた表情だったのか、分からなかった。
けれど、あの人は、私の未来が少しでも良くあるように願ってくれていたんだ……。
リルの顔を見つめたまま、ふにゃっと泣き出しそうな顔になってしまったサラ。
それを見てリルは、レイの事心配してるのかな、と思う。
「……また、貴方ですか」
「ぅわぁ!?」
背中からかけられた声に、リルが慌てて振り返る。
(やっぱりこの人、音がしない……?)
こうやって聞けば、確かに、心臓の音も呼吸の音も聞こえてるのに。
近くに来るまで、全く気付けない。
バクバクの心臓を手で押さえながら、リルは(耳だけじゃなくて、もっと色んな感覚を磨かないと……)と冷や汗をかいた。
「ええと……、久居のお父さん」
「……クオンです」
「あ、そうだった。クオン!」
ポンと手を叩いてリルが言う。
「はい」
ぎこちない笑顔で返事をしながら、クオンはまた名前を忘れられていた事にそっと傷付いた。
「えっとね。久居がね、クオンともっとお話ししたいみたいだったよ」
「そう……ですか……」
クオンが俯くと、顔は前髪にほぼ全部隠れてしまった。
けれど、チラリと見えている耳が両方真っ赤なので、多分顔も真っ赤なんだろうなとリルは思う。
「でも、久居はコモノサマの側を離れたがらないから、こっちにはまず来ないと思うんだ」
「…………そうです、か……」
先ほどと同じ言葉ではあったけど、今度は明らかにガッカリした声色で呟かれる。
(コモノサマというのは、一体……?)
クオンが、それを聞いても良いものかと考えあぐねている間に、リルが続ける。
「だからね、クオンが遊びに来て?」
「…………え?」
キョトンとした、間の抜けた声が聞こえた。
「わ……私が……会いに、行っても……良いんですか?」
クオンがふるふると震えているのは、喜びからか、戸惑いからか。
「うん、いいよ!」
リルがにっこりと、花のように微笑んだ。
ほわわ。とクオンの周りにも小さな花が飛ぶのが、リルには見えた気がする。
喜んでくれた事にホッとしつつ、リルは一歩近付いた。
「クオンは、ボクの居場所が分かるような印が付けられる?」
「え、あ、はい。簡単なものでしたら……」
「じゃあ、それをボクに付けてくれる? ボク、場所とか説明できないし、地図とかも良く分かんないんだよね」
と、リルが自身の無能さに照れ笑いのようなものを浮かべつつ「ボクは、大体いつも久居と一緒にいるから」と言う。
さらに一歩近付くリルに、クオンが思わず一歩下がる。
距離をとられて、リルが笑顔にじわりと汗を浮かべつつ
「あと、ボク達結界の中にいる事があるから、クオンが中に入れるようにしとこうかなって、思うんだけど……」
と、もう一歩近付くと、クオンは二歩下がってしまった。
リルが困った顔でサラを見ると、サラはほんの少しだけこちらに手を伸ばし、クオンに悪気がない事を説明する。
「……、…………」
「それって、照れ屋さんって事?」
「…………」
「そっか……」
(ずっと怖い目に遭ってたから、怖がりさんになっちゃったのかな……)
リルがしょんぼりと目を伏せる。
そんなリルに、クオンがおずおずと尋ねた。
「あの……サラと、話しができるのですか?」
「うん? クオンはできないの?」
リルに聞き返されて、クオンは「いえ、声に出してもらえれば、出来ますが……」と答える。
しかし、サラはいつも声には出していた。
とてもとても、小さいだけで。
「あ、確かに、声がとってもちっちゃいもんね。聞こえないんだね」
とリルが言うのを聞いて、クオンはその事実を知った。
突然、ゆらり。と地面の揺らぐ音を聞いて、リルは耳をそちらへ向ける。
少し先の中庭へ、地中から誰かが来る。
(なんて名前だったっけ。赤い髪の……)
リルが人差し指を顎に当てて首を傾げた。
クオンは、びくりと体を強張らせると、ささっとサラの影に隠れる。
乱暴に足音を立てながら、ラスは姿を現した。
「……なんでお前がここにいんだよ」
開口一番、ラスはリルをジロリと睨んで言う。
「ボクは、クオンに話しを……」
答えるリルを遮って、ラスは続けた。
「まあいい。今は時間がない。空竜、手伝ってくれるか?」
「キュイ」
空竜は、リルの腕の中からするりと出ると、ラスの頬に擦り寄る。
ラスはそんな空竜の鼻筋を優しく撫で
「甘えんのは後な、すぐにこいつらを妖精の里まで運んでやってくれ」
と意外なほど優しい声で囁いた。
ハッと、視線を感じてラスが顔を上げる。
サラは、いかにも面白いものを見たという顔で……と言っても目はいつもの半眼だったが、ニヤリと口端を上げていた。
その後ろでは、いつもラスの態度に怯えてほとんど顔を見せないクオンも、意外なものを見たという顔をしている。
リルは、空竜の甘えっぷりにちょっとだけムッとした顔をしたが、それよりも何があったのかが気になった。
「何があったの?」
「久居が死にかけてる」
ラスの短い答えに、リルとクオンは顔色を変えた。