「玖斬様!!」
ヒバナの悲痛な叫びは、音を発する前に闇の中に飲み込まれた。
炎が闇に覆いかぶさると、闇は捕われまいと暴れ狂った。
広さのある空間いっぱいに、闇と炎が混ざり合い、充満する。
闇がヒバナを掠める度に、思い出したくもない光景ばかりが胸に浮かぶ。
全てをかけて仕えると誓った彼女の、あまりにも早過ぎる最後……。
それは、今の
ヒバナは強くかぶりを振り、過去を振り払う。
(……私の玖斬様はいずこへ……)
見渡しても、視界に映るのは闇と炎の奔流だけだったが、ヒバナがクザンの魂を見失うはずが無い。
主人の気配を辿るように進めば、その先はまだ深い闇へと続いていた。
衝撃波に飛ばされたからか少し離れてしまっていたが、可能な限り近付くと、主人へまた力を送り始める。
スルスルと吸い込まれてゆく力は、主人の意識はまだはっきりしている証拠だった。
後は、もういいと言われるか、この命が尽きるまで、注ぎ続けるだけだった。
「お、生きてたか」
クザンは流れ込んできた力に、ヒバナの無事を知る。
それと同時に、早いところ決着をつけなければ、ヒバナが倒れるだろう事も頭の端に入れておいた。
上も下もわからないような空間。
言葉は、口にしても自分の耳にすら届かない。
もしかしたら、音すらも闇が喰っているのかも知れない。
クザンは、より一層腹の底に力を込める。
そうしていないと、一瞬で闇に意識を飛ばされそうだった。
ラスはもう目の前だ。
だが、まだ手は届かない。
「なんっなんだよ、この卵の殻みたいのは!!」
さっきから、殴っても焼いても、びくともしない。
そうこうしている間にも、クザンの体はその輪郭から闇に浸食されてゆく。
クザンはこんなところで負けるわけにはいかなかった。
少なくとも、リリーより先に死ぬ事は、あってはならない。
リルとフリーの事だって、まだ置いて逝くには早過ぎる。
ラスを諦めて、環だけ回収して離脱するか?
一瞬頭をよぎった考え。
それに怒り狂ったのは、クザン自身だった。
「お前だけ置いていけるかよっっっ!!!」
ゴッ……と鈍く重い音が脳に響き、闇色の殻にヒビが入る。
どうやら、クザンの怒りに任せた頭突きが、最後の一押しになったらしい。
入った亀裂は細かく、どこまでも広がり、殻は粉々に砕け散る。
中から、さらに濃い闇が溢れ出す。
クザンは眉を顰めつつ、その中へ手を突っ込むと、ラスを引き摺り出した。
額から滴る鮮血がボタボタと落ちて、クザンは自身の額が割れた事にようやく気付く。
ラスは闇に飲み込まれ、黒く染まっていた。
クザンは、ラスを包むように炎を纏わせる。
闇は、抵抗するようにバチバチと火花を散らして渦巻いたが、次第に溶けて消えた。
フッと、部屋中の空気が軽くなる。
闇の気配が抜けてゆくと、部屋には淡い水色の炎だけが広がっていた。
「火端、もういいぞ」
言われて、ヒバナがその場に崩れる。
「はっ……、流石は、私の玖斬様……お見事で、ございます」
ゼエハアと汗だくで肩で息をしつつも、ヒバナがクザンを称賛する。
普段はシワひとつ無い真っ白な服も、今はあちこちを闇に喰われ黒ずんでいた。
「当然だ」
部屋に漂う炎を吸収しながら、クザンが笑う。
その笑顔を、ヒバナがホッとした表情で見上げた。
クザンは大股でヒバナの所まで歩くと、片手で頭をガシガシ撫で回す。
クザンの瞳と同じ檜皮色の帽子がずり下がるのを、ヒバナは片手で押さえた。
「お前もよく頑張ったな、偉いぞ」
「玖、玖斬様……!!」
ヒバナが大きく息を吸い込む。
しかしクザンは、ヒバナがいつもの長ったらしい話を始めるより早く、ヒバナの目の前に腕を突き出した。
その片手には、ラスが頭を掴まれたままぶら下がっている。
「だが、こいつのことを知らせなかったのは、許せん!!」
クザンは紛れもない殺気を込めて、ヒバナを睨み付けた。
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(あ、お父さん達、勝ったみたい……)
リルは、手を耳に添えて城中の音に集中する。
指笛の音がした。お父さんが空竜を呼んだらしい。
もうじき、ここに来るだろう。
もう少ししたら、さっきのお姉さんもここに着く。
一緒のレイはちょっと弱ってる音だけど、死にそうってほどではない。
仲直り、出来たのかな……?
久居に伝えると、きっとレイの方に行っちゃうだろうな。と思いつつ、リルは目の前の二人を交互に見上げた。
久居とクオンは、シンと静まり返ったまま見つめ合っている。
クオンは酷く悲しそうな目で、それでも優しく微笑んでいた。
久居はその微笑みを、どうしたら良いのか分からないままだった。
「久居はとっても強いから、大丈夫だよ?」
沈黙を破って、リルがクオンに話しかけた。
クオンの悲しみが一層濃くなる。
「天使達は……どんな手段を取るかわかりません。
たとえ、久居が直接天使に負ける事がなくても……」
そこまでで、クオンの言葉は途切れた。
久居がようやく口を開く。
「……かまいません。それは、私の人生です」
静かに、しかしはっきりと言い切られ、クオンが動揺する。
「そんな……、私は、久居にそんな思いはさせたくありま……」
「私は、自分のせいでこの世界が滅ぶなど、もっと嫌です」
被せて言われ、クオンは可哀想なほど狼狽えた。
「そんなつもりはありません。天界だけを……」
「それもお断りです。天界は私の友人の故郷ですから」
クオンが息を呑む音は、久居にも十分聞き取れた。
「…………では……それでは……、私は一体、どうすれば……」
クオンが自身の眼前に広げた両手は、ひどく震えている。
「生きてください。この世界で。できる限り幸せに。
私は、たとえこの血のせいで命を失うとしても、微塵も貴方を恨みはしません」
久居の言葉は静かだった。
「久居……」
クオンは、今にも泣き出しそうな顔で久居を見る。
そんな視線を受け止めて、久居はようやく、どこか仕方なさそうに表情を緩める。
「貴方が……。いえ。父さんがいなくては、私はそもそもこの世に居ないのですから」
久居が、脳裏に主人の姿を映して、美しく微笑んだ。
「……久居……」
悲しそうな瞳の色は変わらなかったが、それでもクオンは目を細めた。
切なく儚げな、僅かにでも触れると壊れてしまいそうな微笑み。
それを見て、リルはなんとなく、クオンの瞳はもうずっと前から悲しい色だったんだろうな……と思った。
近付いて来た足音に、リルが通路の方を見る。
その仕草に、久居がハッとそちらを振り返るので、クオンもそちらに目をやった。
「父さん……お兄ちゃんを助けて……」
べしょべしょに泣きながら、血だらけのレイを引き摺って出てきたのは、サラだった。
「サラ!」
クオンが慌てて駆け寄る。
あちこちに血がついたサラの怪我を確認するクオンが、サラに怪我がない事を知って息をつく。
その後ろで、久居がジリっと半歩後退った。
(……今、レイの妹に『父さん』と呼ばれませんでしたか!?)
脳内で可能性の計算を始める久居の元へ、羽ばたき音が降る。
それとともに、中庭にブワッと風が起こった。
見上げた空竜から、クザンが身を乗り出して叫ぶ。
「帰るぞ!!」
言われて、リルがサラの腕からひょいとレイを取り上げた。
「あ、お兄ちゃん……」
「大丈夫。レイはこのくらいじゃ死なないからね」
リルに至近距離でにっこり微笑まれて、サラは、伸ばしかけた腕を困った顔でじわりと引っ込める。
「……」
「うん、ボク達がちゃんと治してあげるよ」
「……」
「どういたしまして!」
リルが、花のように眩しく微笑んだ。
「!?」
なぜかサラと会話を成立させているリルに、クオンが驚く。
その間に、リルはクザンに手を掴まれて、ぐいと空竜に引き上げられた。
続いて久居も飛び乗る。
「ま、待ってください!!」
クオンが慌てて久居に手を伸ばす。
ぽいと久居の手に、環が一つ投げ寄越される。
投げたクザンは「使え」とだけ言った。
「はい」
久居が手早く環を装着し、風を起こす。
空竜に追い縋ろうとするクオンが、風に煽られて歩みを止める。
久居はレイをちらと見てから、サラに「貴女も来ますか?」と声をかけてみる。
和解したなら、レイの怪我が気になるのなら、勝手に引き離すのも何だか申し訳ない。
「……私は行かない。父さんが一人になっちゃうから……」
サラが静かに首を振るのを見て、久居は
「分かりました。ありがとうございます」と心を込めて一礼する。
次の瞬間、空竜は大きく羽ばたき、空高く飛び立った。