ハッ! とレイが目覚める。
伝わる硬い床の感触。どうやら気を失っていたようだ。
ゆっくり起き上がりながら、霞のかかったようなぼんやりした頭を振る。
(……どこまで、考えた?)
思い出そうとするレイを阻むように、痛みが襲う。
「っ……またか」
レイにも、もう分かっていた。
この頭痛は人為的なものだと。
いや、本当は、もっとずっと前から分かっていたのかも知れない。
それでも、理解したくなかった。
義兄をただ、慕っていたかった。
自分は利用されているだけだなんて、思いたくなかった。
義兄は、いつも優しく微笑んでいた。
俺のことを、実の弟のように、可愛がってくれた。
歳が随分離れていたのに、義兄は時間を見つけては一緒に遊んでくれたし、勉強に役立つ本を勧めてくれたり、多少無理をしてでも食事を共にしてくれた。
だから、俺は……。
俺は、たとえ義兄に利用されているのだとしても、それで良いと。
それで良いんだと思い込もうとしていた……。
床にポタポタと涙の雫が落ちる。
それを見て、レイはギリっと奥歯を強く噛み締めた。
(……それでも、考えるのをやめるわけにはいかない。
カロッサさんがくれた、この時間を無駄にするな!)
レイは自身を叱咤する。
よく考えるんだ。
母は、なぜ殺されたのか。
闇の力を持つ妹が狙われるというなら分かるが、母は……?
いや、母さんは妹を我が子として愛していた。
妹が狙われれば、当然助けようとするだろう。
母は、妹を庇って亡くなったのかも知れない。
現に妹は、今生きているのだから。
義兄はあの研究に携わっていた。
実験体の顔も分かっていただろう。
失敗作を片付けるよう、上から指令を受けていても不自然ではない。
いや、もしかたら、まだその命は有効なのかも知れない。
妹は、今も天界から狙われているのだろうか。
俺がこうしている今も、一人、逃げ隠れているのだろうか。
妹の名だけが、まだどうしても思い出せない。
その記憶へ、手を伸ばせば伸ばすほど、痛みは激しさを増した。
「ぐっ……あ゛……っ」
苦痛に喘ぐレイが、またその思考を焼き切られ、床へと沈む。
その手の中で、ずっと握りしめられている白い羽根は、いつの間にかレイにとって、かけがえのない物になっていた。
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リルと久居は、翌朝には空竜に乗り、北へと移動を開始した。
カロッサの言葉をリルが書き取っていた、あの城を目指して。
そこに、四環とレイの妹がいるはずだった。
空竜の背で、リルが耳をピクピクさせる。
気付いた久居が息を殺していると、リルが呟いた。
「これ……鬼火の音だ」
リルの言葉に応えるように、ドンっと遠く前方で音がして、黒い煙が立ちのぼった。
「これで終わりだ」
ラスはなるべく低い声で、そう告げた。
もう目の前の天使達は、誰一人起き上がれそうにない。
それでも、彼はとどめを刺すつもりでいた。
そうでなければ、次にやられるのは自分達だ。
天使は全部で五人倒れている。
それを端から順に、一人、二人、と焼き殺してゆく。
ラスの火力はそう強くない。
残らず消し去るには、一人ずつ焼く他なかった。
辺りに立ち込める嫌な匂いと煙。
仲間が一人、また一人と黒焦げになるのを目の当たりにして、残された天使の一人が怯えて命乞いをした。
「天使の人、助けてって、泣いてるよ」
耳に手をかざしたリルが言う。
「殺されそうなのですか」
「うん……」
久居の問いに、リルは頷くと、不安そうに久居を見上げて言った。
「助けてもいい?」
「私達は天使に追われている身ですが……」
「……」
リルはジッと久居の言葉を待っている。
久居は、少しだけ考えてから、苦笑を浮かべて答えた。
「……分かりました。助けに行きましょう」
こんな状況ではあるが、だからこそ、天使に売れる恩があるならば、少しでも売っておこうと久居は判断する。
それに、リルの自主性を奪いたくないというのも、少なからずあった。
「うん!」
許可を得て、リルは破顔する。
「くーちゃん、あそこだよっ!」
「クォン」
空竜が分かっているという風に返事をして、降下を始める。
「天使達、酷い怪我してる」
「何人ですか?」
「助けられそうなのは、二人……」
リルの声から元気がなくなる。
「三人目も、もう燃えちゃった……」
久居は、リルの焦りを分かりきれなかった事に、今更気付く。
「分かりました。二人は必ず助けましょう。リルは鬼をお願いできますか?」
「うん! 久居は治癒、無理し過ぎないでね」
空竜が応えるように、ぐんと地上に体を寄せる。
ラスは、勢いよくこちらを振り返り「空竜!?」と飛び退く。
久居はリルを片腕に抱え、鬼と天使達の間に降り立った。
「お久しぶりですね」
にこりともせず、久居が言う。
「お前……カロッサの知り合いか?」
久居は、カロッサの名に小さく痛んだ胸に、気付かぬフリで質問を返す。
「そうおっしゃる貴方は、カロッサさんのお知り合いですか?」
尋ね返されて、ラスが戸惑う。
「ど……どっちでも、いいだろ……」
その返事に、久居はこれを告げた方が良いと判断する。
「カロッサさんは、貴方を傷付けたくないようでしたよ」
ぐっ。と、言葉に詰まったラスの小さな息の音が聞こえる。
リルはその間に、まだ息のある二人が今すぐ死にそうなのか、もう少し持つのかを音で判断していた。
リルが、久居の服の裾を引いて片方の天使を指す。
久居は足早にそちらの天使へと向かった。
それを見て、ラスの纏う空気がザワリと揺れる。
ラスはあからさまに嫌そうな顔で呟いた。
「……お前ら、天使の仲間だったのか」
久居と入れ替わるように、リルが首を傾げながら、ラスの前に出る。
「えー? うーん……どっちかと言うと、天使さん達は敵かなぁ……? 昨日も、ボク達殺されるとこだったし。久居は大怪我しちゃったし……」
久居は、リルの後ろで天使の治癒を始めている。
「はぁ!?」
ラスは思わず大きな声をあげた。
リルが、ひゃん。と耳を押さえる。
その仕草に、ラスは以前黒髪の男がこの少年から距離を取ろうとしていたのを思い出した。
今は術で耳を隠しているようだが、その少年は聴力が良いらしい。
どうやら人間では無いようだ。
「……それでどうして、そいつらを助ける」
「死んでもいい命は、ないと思うから」
リルが、気負う様子なく答える。
その簡単な答えに、ラスは大きく目を見開いた。
天使達は、いつもラスを死ぬべき命だと断じてきた。
そんな事はないと叫ぶのはいつもこちら側で、他人からそんな言葉を聞いたのは、本当に……久しぶりだった。
脳裏に檜皮色の人影がよぎる。
ラスにも以前、そう言ってくれた人は居た。
俺のことを弟のように可愛がってくれて、俺も、彼を兄と慕った。
思わず、湖畔で過ごした温かい日々が胸を過ぎる。
……けれど、あの場所は、もう無くなってしまった。
彼にも、あれから一度も会えていない。
いつでも頼れと、言った癖に……。
「……馬鹿馬鹿しい」
ラスは首を振ると、リルへ指先を向けた。
リルは、薄く纏っていた炎を厚くする。
ラスはもう一度、瞠目した。
その炎は白色で、ラスの出せる温度をゆうに超えている。
「お前、鬼なのか」
ラスの掠れるような声に、リルがまたも首を傾げて答える。
「うーん……。鬼って言っていいのかよくわかんない」
じり……とラスはリルから僅かに後退りつつ問う。
「……どういう意味だ」
「ボク、お父さんしか鬼じゃないから」
「……混血、か……」
ラスの瞳が揺れる。
(……俺と同じじゃないか。それで、天使に殺されそうになってて、それなのに天使を助けようっていうのか?)
ラスは一つ長く息を吐くと、掌に集めた炎を引っ込めた。
「もういい。好きにしろ」
ラスは息のある残り二人の天使を一瞥する。
(こいつらは、城の場所までは知らない。どうせ、もうすぐ天界は消えて無くなるんだ……)
ラスは、そう自分を納得させると、踵を返し森の奥へと去る。
ラスを追う者はいなかった。