「くーちゃん、ただいま。久居は変わりない?」
ガサガサと茂みをかき分けて、食べ物を探しに行っていたリルが戻って来る。
「クォン」
そこには、青白い顔で昏睡する久居と、それを守るように体を添わせる二人乗りサイズの空竜がいた。
あれから、久居は移動する空竜の上で、探知用の印のついたリルの髪を切り落とした。
それから着地して、休憩場所を確保すると、ふらふらと結界を張って眠って……というか、倒れてしまった。
「ボク……、呼んでみようかな。変態さん」
リルの呟きに、空竜が短く唸る。
「そんなに危険、かな? でもあの人を呼べば、久居を元気に出来るよ……」
リルは、ヒバナに初めて会ったときの事を思い出す。
思い出すだけで、背筋が、全身がぞくりとして鳥肌が立った。
今まで怖い事には沢山出会ったことがあるけど、あんな風な怖さは、初めてだった。
「グルルル」と空竜がもう一度低く唸った。
「うん……そうだね。怖いね、あの人……」
殺されそうな怖さとはまた違う。
何をされるか分からない、そんな得体の知れない怖さというのが、この世にはあるんだと、リルは思った。
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白い羽根は、レイの額でしばらく光り続けた後、静かに輝きを失った。
術の修了と同時に、部屋に張られた結界が解ける。
結局、何の術だったのかは分からなかった。
それはあまりにも複雑で、難解な式をしていた。
それがこの羽根の持ち主が残した術だった可能性もあるにはあったが、レイは術式の感じからカロッサが残した物だろうと判断し、そのまま術を受け入れた。
長い時間をかけて、丁寧に編み込まれた緻密な術。
見た限りでは、対象者は俺に限定されていたようだった。
彼女が俺に残したものなら、何であれ受け取りたいとレイは願った。
手に残った白い羽根をもう一度見つめる。
リルは、この羽根の持ち主は俺の妹だと言った。
(妹……)
妹など、俺には居ないはずだ。と記憶が主張する。
けれど、そんなはずはないと、心は言っていた。
そんな大事な事を、忘れてしまうなんて事があるだろうか。
(やはり、俺の記憶は、何かおかしい……)
ツキン、と頭に痛みが刺さる。
「な……」
俺は、記憶を辿る時にいつも襲う激しい頭痛が、ささやかな痛みになっている事に驚いた。
痛みは今も続いているが、この程度なら、倒れるまでにもっと考えられるかも知れない。
手元の羽根をもう一度見る。
彼女が、俺に残してくれたものの意味が分かった気がした。
リルはこうも言っていた。
『カロッサを殺す人は、レイの母親を殺した人だ』と。
二十七年前……。
リルと久居はまだ生まれていない。
俺も二十一……人で言うと十くらいの歳だし、サンドランだってそうだ。
疑えるのは、当時五十、人で言う二十五歳ほどの義兄くらいしかいない。
まあ……空竜は除いて、だが。
しかし凶器の短剣は、確かに久居の方から飛んできた。
……投げるところまでは見ていないが、兄は見たと言った。
ズキン。と一際強く頭が痛んで、レイは小さな呻きを漏らし床に膝を付く。
グシャッと手の中の羽根が潰れた音に、羽根の持ち主を想う。
この羽根は、陽の光で浄化されるまで、闇色をしていた。
闇の者であるのは確かだ。
しかし天使でもある。
それはつまり、天使と闇をかけ合わせてあるという事……か?
俺の妹は……、あの時確かに、母のお腹の中にいたはずだ。
ドロドロに塗り潰されていたはずの思い出は、いつの間にかそのあちこちでドロっとした汚れが溶け落ちていた。
母のお腹を、母に促されるまま撫でた。
まだ俺が人の年齢で五つほどの頃だ。
何かがぐいと手を押し返して、ものすごく驚いたのを思い出す。
産まれてきた赤ちゃんの世話は、俺も母と一緒にたくさんした。
母には、とても頼りになる兄だと言われた。
妹は、ギュッと俺の指を握り返したし、笑うようになってからは本当に可愛くてたまらなくなった。
そのうち、お兄ちゃんお兄ちゃんと後ろをついてくるようになった。
うちは両親共に外で働いていたので、俺が妹を見ている時間は長かった。
友達だけで遊びたい時には、迷惑に思う事もあったが、それでもやはり、可愛い妹だったし、俺が守らなければと思っていた。
「……っ」
溢れる思い出に、息が詰まる。
両手を付いた床の上に、ポタポタと落ちる雫は、頭痛からの脂汗だけではなかった。
でも、どうして……。
どうして母から、闇の力を持つ子が生まれるんだ……?
妹の首にある、赤い痣。
闇の刻印は、久居の肩にあったものと、全く同じだった。
レイの知る限り、両親は善良な天使だった。はずだ。
両親の事をよく思い出してみる。
父は、今の義兄と同じく大神殿に勤める研究者で、母はそこで研究の手伝いをしていた。
あの頃は研究の内容までは知らなかったが、後に義兄が教えてくれた。
両親は、闇の者から闇の力を取り出し、それを天界……ひいては世界の平和や発展に役立てるための研究をしていた。と。
父はその研究の責任者で、義兄も、そのプロジェクトの一員だったと言っていた。
ある日、父の研究により闇の力を持って生まれた天使が、闇の力に覚醒し、それを暴走させた。
たくさんの天使が暮らす居住区の真ん中で。
大勢の天使達が、闇にのまれて亡くなった。
それから、天界では闇の力を非常に恐れ、憎む者が増えた。
以降、闇の力を持つ者は全て、見つけ次第処分されるようになった。
そして父も、その事件の責任を取る形で、裁判にかけられ、死んだ。
「……ああ、そうか」
(妹は、父の研究の、成果だったのか……)
レイは、ひと波ごとに増してくる痛みに、息を荒げる。
それでも、少しずつ、確実に、レイは失った記憶を取り戻していた。