空竜は、出来る限り落下時のダメージを抑えようと、落ちるギリギリまで抗った。
久居は激突まで空竜から離れなかったが、リルは途中で手が離れてしまった。
久居は、女の去る気配を確認しながら、なるべく静かに深く息を吸い込むと、沈んでゆくリルを追って海に潜った。
背後で、一瞬気を失っていた空竜が、動き出したらしい揺れを感じる。
まだ久居の心には、先ほど見た赤い光を放つ痣の衝撃が残っていた。
あの痣は、自身の肩にあるものと同じだった。
私の肩の痣も、闇の力を放つ時にはあのように赤く光っているのだろうか。
服と首巻きで覆われた位置だったので、今まで指摘された事はなかった。
けれど、おそらくそうなのだろう……。
自分は真に『闇の者』と呼ばれる存在なのだと、天使にとって粛清すべき存在なのだと。
理解していたはずなのに。
改めて突きつけられた事実に、胸が騒めく。
リルはまだ意識を失っていた。
一刻も早く助けなくてはならないのに。なのに、赤い色が頭から離れない。
暗い海の底へ手を伸ばすほどに、閉じ込めた何かに手が触れてしまいそうで、そんな予感に体が強張る。
久居は、リルを助ける事だけに集中しようと、気持ちを切り替えようとした。
その時だった。
暗闇の中、偶然、波に揺られたリルの腕が、ふわりとこちらに伸ばされた。
その姿は、ずっと昔、海の底から久居に手を伸ばした、母の姿と重なった。
「っ!?」
忘れていたはずの、遠い日に海へ沈んだ母の、最後の姿。
鮮明に蘇ったそれを引き金に、記憶の数々が数珠繋ぎに久居の中を埋め尽くす。
受け止め切れない強烈な感情が、痛みが、苦しみが、恨みが、願いが、渦となって久居を襲う。
久居は思わず叫び出しそうになるのを、必死で堪えた。
心臓が早鐘を打ち、急激に息が苦しくなる。
体が……まるで動かない。
目の前の、リルの腕すら掴む事ができない。
ゆらり。と海流がうねり、久居とリルをじわじわと引き離す。
リルはピクリとも動かない。
(っ……このままでは、リルも私も……!)
肩に残った古傷が酷く疼く。
少しずつ、目の前が暗くなっていく気がした。
(……っ……菰野、様…………)
伸ばした自分の指先さえ、もう見えない。
そんな久居の頭に、菰野の声がハッキリと響いた。
『俺の手の届かないところで、勝手に死ぬ事は許さない』
いつも優しい菰野の声に、あの時は強い祈りが込められていた。
『お前は必ず、俺のところに帰って来るんだ。いいな?』
それは、旅立ちの日に、菰野が久居に授けた命だった。
久居はその命に、必ず戻ると答えた。
(必ず…………必ず、お傍に戻ります!!)
久居は、胸に菰野の姿だけを描く。
あの日、自分を励ましてくれた年下の主人は、ほんの少し寂しげに微笑んでいた。
あの方を一人でお待たせしているのに。
私の帰りを、信じて一人で待っていてくださるのに。
気付けば、ぐちゃぐちゃだった頭の中は、菰野の事でいっぱいになっていた。
久居は、もう一度腕を伸ばす。
腕は、ぎこちないながらも、なんとかリルに届いた。
まだガチガチの体を無理矢理動かして泳ぐ。
胸の内で菰野が微笑む度に、少しずつ余計な力が抜けてゆくのを感じながら、久居はリルを連れて海面を目指した。
ぶはっ!
と音を立てて久居が息を吸う。
胸が裂けそうに痛む。手足も先端の感覚が無い。
どうやら随分と体に無理をさせてしまったらしい。
リルは海面に叩きつけられた拍子に呼吸停止していたのか、水はあまり飲んでいないようだった。
気道を確保して、治癒の応用で水を出してやると、落ち着いた呼吸を取り戻した。
全身の打撲も、久居ほどではない。
鬼の頑丈さゆえか、子どもの柔軟さゆえかは分からないが、ともあれ無事でよかったと息をつく。
気が緩むと、途端に先程甦ったばかりの記憶が、久居の心を埋め尽くそうと襲い掛かった。
水面に浮いている空竜に手をかけたまま、俯いた姿で動かなくなった久居を
「クォン」
と空竜が鼻先で押して促す。
久居がリルを抱えてその背に乗ると、二人と一匹は静かに来た道を戻った。