月が綺麗で、夜の海は夢の中のようにキラキラと輝いていた。
久居は海の見えるこの町で育ったので、数え切れないほどに海を見たことはあった。
けれど、父親が外に出ない人だったため、波打ち際まで来たのは二人とも生まれて初めてだった。
邑久は、初めての海に、波打ち際で寄せては返す波の飛沫と戯れ、はしゃいでいた。
無邪気な笑顔を見せる弟へ、久居は、潮風が沁みる傷だらけの身体を震わせながらも、なんとかその笑顔に応えていた。
しかし、既に久居にはこの先の予感がなんとなくあって、同じようにはしゃぐ気にはなれなかった。
母親は、膝ほどまで海に入ると、ひとしきり遊んだ邑久と自分を呼び、二人まとめて抱き締めた。母の表情は驚くほど優しげで、久居は泣きたくなる。
服を脱ぐこともなく、三人はひと塊のまま海に入ってゆく。
泳ぐつもりなど毛頭なさそうな母は、ただ海の底を目指していた。
久居は、恐怖を精一杯堪え、黙って母に付き添う。
母のため、せめて共に沈もうと覚悟をしていた久居だが、その覚悟は、まだ幼い邑久に求めるには重過ぎた。
すぐ隣で、今にも波に飲まれそうな邑久が暴れもがくのを、母が押さえようとしている。
それをぼんやりと見ていた久居へ、小さな手が、精一杯伸ばされる。
「おに、ちゃ、助け……」
その瞬間、久居は動いていた。
どうしたのかは自分でも分からなかった。とにかく夢中で、邑久を抱いて、気付けば砂浜に戻っていた。
息が上がっていた。
体中の傷に海水が沁み込んで、ひどく疼いている。
邑久は隣で泣いていた。
久居は、ただ茫然と、海を見る。
「……お母さん……」
海中で、母が手を伸ばしていた。
私を求めていた。
足を海藻に取られていた母は、それ以上こちらに来られないようだった。
これ以上置いていかないでと、一人にしないでと泣いていた母を、私は置いて来てしまった。
……私が、海に置き去りにしてしまった。
母は……。
……母は、……死んで、しまったのだろうか……。
あんなに悲しい人を、……あんなに、優しかった人を……、暗く冷たい海に、一人きり、置き去りに…………?
……あの人を、海に置いて来てしまったのは……。
………………私、だ……。
私が……母を……殺してしまっ――……。
喉の奥で、何かが爆ぜた。
久居の突然の慟哭に、邑久が必死で久居を抱きしめる。
「おにいちゃん、ごめんなさい! おにいちゃん、ごめんなさい!」
そう泣きながら繰り返す弟に抱き付かれたまま、久居は意識を失うまで泣き叫んでいた。
両親が暮らしていた家は借家だったため、幼い二人はすぐに住むところを無くした。
父からも母からも、家族らしい人の話は聞いた事がなく、町には仲の良い人どころか知り合いすらもまるでいなかったので、必然的に二人は路上で生活するようになった。
久居は、たった一人の弟を生かすため、ありとあらゆる手段で稼いだ。窃盗こそしなかったが、それは弟を守るためで、自分の身はいくらでも切り売った。
夏が過ぎ、秋まではそれなりに生活ができたが、それでも、冬の寒さを乗り切るに十分な住まいを確保することはできなかった。
ここまでで、カロッサは術を打ち切った。
この先は、もう久居が覚えている範囲のはずだ。
カロッサが心を落ち着けるように、息をゆっくり吐きながら久居の背に当てていた手を離す。
びっしょりと、自分でも驚くくらい汗をかいていたらしく、手の跡がくっきりとそこに残っていた。
「カロッサ様、これを……」
カロッサが、久居の差し出した手拭いを受け取る。
カロッサの涙腺は、かなり前から崩壊していた。
水で濡らして絞ってあった手拭いは、顔を覆うとひんやりして気持ち良かった。
カロッサはもう一度、ゆっくり深呼吸をする。
細く長く息を吐いてから、
「久居君は……出といてくれる?」
と酷く掠れた声で言った。
久居は短く「はい」と答えると『心を落ち着けるお茶』を彼女の傍に出してから、速やかに小屋を出る。
菰野は一言も発さず、部屋の壁際で、壁と同化しているかのように気配を消していた。
カロッサの邪魔になる事のないよう、彼なりに精一杯気を遣っているのだろう。
こちらに背を向けているのも、泣き顔を見る事のないようにという配慮からかと思うと、カロッサは少しくすぐったく思えた。
カロッサは、そんな菰野の気遣いに甘えることにして、しばらく落ち着くまでは、ゆっくり息を整え、お茶を飲んで過ごした。
「お待たせ、菰野君。もう大丈夫よ」
まだほんの少し潤んだ声に菰野が振り返ると、カロッサが赤く腫れたままの目で微笑んだ。
「……ありがとうございます」
菰野が、カロッサに向き直り、深く頭を下げた。