その日、カロッサは何故か桶を抱えてやってきた。
「今日こそ見るわ、久居君の過去!」
急な申し出に、久居がほんの少し面食らう。
記憶が部分的に抜け落ちている久居の過去を見る事については、確かに以前カロッサが提案を受けていた。
だが、その後すぐレイが倒れて、翌日にはレイは久居の血について誰にも話さないと言ったため、そのままになっていた。
「急に、……何かあったのですか?」
レイの質問は、至極もっともだと久居も思った。
「んー。大変そうで、ついつい後回しにしちゃってたんだけどね、そろそろ見ておかないと、久居君達引越しちゃうでしょ?」
「ですが、カロッサ様のご負担に……」
久居の言葉をカロッサは仕草で制する。
「これは多分、私がやるべき仕事だから」
カロッサはキッパリ言い切った。
「……」
久居が返事に困っていると、珍しく菰野が口を挟んだ。
「久居、どういう事だ?」
久居が菰野に事情を説明する隙に、リルがカロッサの持つ桶を覗きに来る。
「何が入ってるのー?」
「何にも入ってないわよ」
と笑ってから、カロッサがちょっと苦い顔になる。
「これはね、私が吐いちゃう時用」
「ええ? カロッサ具合悪いの? お腹痛い?」
リルがあわあわとカロッサの顔を覗き込むが、カロッサは元気そうな顔をしている。
レイも慌てて寄ってきたので、カロッサは一つ苦笑して続けた。
「一応朝ごはんは抜いてきたんだけどね。久居君の過去がどんなものか分からないから、念のためよ」
「ふーん?」
と、よく分からなそうな顔をしているリルとは対照的に、レイは苦しげに眉を寄せた。
「ねーねー、ボクの過去も見れるの?」
「見れるわよ」
「見て見てーっ」
「えー? でもリル君、見る必要ないでしょ? 何か思い出せない事とかあるの?」
言われて、リルが首を傾げる。
「ちっちゃい頃のことは、全然覚えてないよー」
「それは普通だからね?」
リルがキョトンとした顔で「そうなの?」と聞き返している。
「思い出せない事……」
小さく唱えて、レイが空を仰ぐ。
(何か、とても大切な事を忘れているような感覚は、いつも漠然とあった。それはずっと……、ただの気のせいなのだと思っていたが……)
そこまで考えて、レイは頭痛に刺され、ギュッと片目を瞑った。
「カロッサさん、お願いがあります」
ふわりと優しい声に、どこか力が込められていて、皆が菰野を振り返る。
「久居に過去の出来事を伝える場合には、失礼ながら、先に私に話していただけませんか?」
菰野は落ち着いた声色で真摯に、けれど懇願するような瞳でカロッサを見ている。
カロッサが思わぬ発言に目を丸くしてから、
「久居君がいいなら、私はそれでいいわよ?」
と久居を見る。
久居は、菰野を心配そうに見つめてはいたものの「菰野様の仰せのままに」と、黙って従う事にしたようだ。
「そんなに二人揃って心配しなくても、私だって見たものを全部伝えるつもりじゃ無いわよ? 世の中、忘れていた方が良い事もあるもの」
そう言って、カロッサは笑ってみせる。
何となく、その横顔に陰りを感じて、きっとカロッサにも忘れていたい事があるのだろうなと、リルを除く数人が思った。
「さーて、そうと決まればササっとやっちゃいましょ。久居君、小屋使わせてもらってもいいかしら?」
「はい」
「ああでも窓も無いし、臭いが篭るかしら……」
「吐く前提ですか」
「だって、久居君が耐えられない内容よ!? 私じゃ絶対無理だわ……」
「……」
げんなりと暗い顔をするカロッサを、複雑な顔で見ていた久居が「少々お待ちください」と断ると、調理場から盆に白湯やらお茶やらを色々乗せて戻ってくる。
口を濯ぐための物や、精神安定作用のあるお茶のようだ。
その間に、カロッサへ術の同席を希望したらしい菰野が
「いいんだけど……あんまり良いものは見せられないわよ」と嫌そうな顔のカロッサに渋々許可を貰い、心からの感謝を伝えていた。
こうして、三人は小屋に篭った。