リルはカップを持って行ったが、返ってきたのは空のカップと土瓶を持った久居だった。
「お茶の温度はいかがなさいますか?」
カロッサの前で注がれたお茶に、久居が手をかざす。
そんな久居を、カロッサがジトッとした目で見上げた。
「……さっきレイ君に止められたんじゃなかったの?」
「……ご存知でしたか」
指摘された久居に動揺する様子は無い。
「レイ君マメだからねぇ。逐一報告に来てくれるのよ」
カロッサがやれやれという顔で久居を見上げて、「じゃあ冷たいので」と続けた。
久居が軽く冷気を注いでカップを差し出す。
リルがそんな二人を交互に眺めて、首を傾げる。
「何を止められたの?」
「この環を使うことを、止められました」
久居が眼だけでリルに少し微笑んで、答える。
「まあ、もう今更なんだけどね。私も浄化とかあんまり上手くないし。とりあえず、今夜リリーに相談してみるわ」
カロッサが苦笑を浮かべながらカップを口に運んだ。
レイは今、連絡係の天使に会いに行っている。
日が真上に来る頃は、天界までの距離が一番近くなるらしく、レイがここを不在にする時は決まって昼頃だった。
先程、レイが一人遅い朝食を済ませて、食器を調理場に運んできた時、久居は昼と夜の食事の仕込みを一気に済ませているところだった。
久居は、普段から午前中のリルが勉強している間に家事をしている。
勉強の中身が興味のある内容の際は、何かしらしつつも聞き耳を立てているようだが、今はひたすら算術の問題を解かされているようだったので、久居は調理場に引っ込んでいた。
午後に、リルの修練に付き合うための時間配分なのだろう。
そんな久居が、レイが運んで来た盆を受け取ろうと腕を伸ばした途端、不意にレイに腕を掴まれ、その力強さに戸惑う。
「……レイ?」
自分より少し背の高いレイを久居が見上げれば、その顔は、見てはいけなかったものを見てしまったかのような、渋い表情で固まっていた。
「久居、これ……」
久居がレイの視線を辿ると、その先には久居の手首に着けられた腕輪があった。
腕を伸ばした拍子に、僅かに覗いてしまったそれは、以前にレイが見た時よりも、さらに闇の色に染まっていた。
「……いつからだ」
レイの厳しい視線が、久居に向けられる。
「徐々に……」
いつからとは答えきれない久居が、仕方なく、両手首の環を見せた。
二つの環は、どちらもまだらに黒ずみ、輝きを失いつつある。
「闇の血を浴びたせいか、それとも、久居が使う毎に……か?
いや、着けてるだけで影響を受けてるって事もある、か……」
レイがいくつかの可能性を並べて、眉をしかめる。
「外しておきますか?」
久居の提案に、
「いや……まずは使わずに様子を見よう」
と、レイは言葉を切ってから、腕輪から久居の顔へと視線を戻す。
「俺は、どうして久居が話してくれなかったのかが聞きたい」
金色の髪に彩られた露草色の瞳に、真っ直ぐ、しかし悲しげに見つめられて、久居は言葉に詰まった。
久居は、この件を意図的に黙っていた。
レイに自分の闇の影響を知らせる事は、自分の首を絞める事であると同時に、レイを苦しめる事でもあった。
しかし、それを本人に言うわけにもいかない。
レイ自身が、自分にかけられた思考制御に気付いていない以上、久居に言えるのは、これだけだった。
「申し訳、ありません……」
レイの青空のような澄んだ瞳が、大きく揺れる。
動揺を隠そうとしてか、ふい、とレイは視線を逸らした。
「……俺は、信頼に足りないか」
その言葉は、痛みを堪えるように、かすかに震えていた。
「……レイ……」
何と伝えれば良いのだろうか。と、久居が言葉を選んでいるうちに、レイは寂しげに微笑んだ。
「いや、良くない言い方だった。すまない。……闇の者が、天使にそんな事、言えるはずないよな……」
じっと久居の手首の環を覗き込みながら、レイが呟く。
「浄化できれば良いんだけどな。一応習ったが、俺はあまり上手くないんだよな……」
聖なる四環を相手に、失敗するかも知れないような術を使うのは怖いらしく、レイは大人しく手を引っ込めた。
「まあ、この事はまだ上には言わないでおく」
レイの言葉に、久居は知らず入っていた力が抜けるのを感じる。
「そういや久居は、浄化ってやった事あるのか?」
「いえ、まったく……」
経験がないというより、浄化そのものが良くわからないと言った方が正しい。
「闇の者が浄化ってのもおかしな気がするが、久居はコントロールが上手いしな、もし興味があれば、書物を取り寄せようか?」
レイにもそろそろ、久居がこういった事に対してまるで知識がない事や、しかしそれを学びたいと思っている事が分かり始めていた。
「私で読めるのでしたら、お言葉に甘えて」
レイの親切心に、久居が微笑む。
「ああ、ここの言葉で書いてあるのを探してもらおう」
と、レイも淡く微笑み返した。