「ここに、空間凍結の終了を宣言します」
カロッサの宣言と共に、久居を包む膜の色が薄くなり、ふわりと大気に溶け込んで消えてゆく。
それと同時に、辺りには血のにおいが広がった。
「あとは頼むわよ」
それだけ告げるとカロッサが下がる。
「おう、任せとけ」
クザンが人懐こい笑顔でにっと笑い、強い決意と共に久居の胸の穴を塞ぎにかかった。
(久居、絶対助けてやるからな)
胸と背中側の両方から、両手で挟むようにして、なるべく素早く、太い血管、肺の内側、その外、細い血管、骨、肉、もっと細い血管……と治癒を進める。
肋骨は一本砕けていたが、背骨は無傷だ。
「火端、寄越せ。少しずつな」
「はい!」
ヒバナはクザンの背に当てた両手に集中する。
彼は直接治癒はしないものの、クザンが久居に注いだ分足りなくなる血液を補うための、いわば輸血パックのような役目をしていた。
「うおっと。こら、少しずつだ、少しずつ!」
注がれた量が多すぎたのか、クザンが姿勢を崩しかけて怒鳴る。
「は、はいっ、申し訳ありません!
ですがその、私めの体液を、玖斬様に受け入れていただけると思うとつい……」
うっとりと目を細めて変態が言うと、クザンの額に青筋が浮かんだ。
「黙れ変態。二度と口を開くな。後で殺す」
低い声で呪うように罵倒され、変態が、心から幸せそうに頬を染めて俯いた。
その姿に、その場にいたクザン以外の全員が、ああ、あれは本当に変態なんだなぁと変態への理解を深める。
……誰も、深めたくはなかったが。
そんな微妙な空気の中、久居が、びくりと体を揺らした。
「……っ」
「お、気付い――」
久居はガバッと顔を上げて、叫ぶ。
「リル! リルは……」
ごぼごぼとした水音とともに吐き出された声も、そこまでしか続かず、久居が盛大に咳き込んだ。
肺に溜まった血が、次々に口端から漏れる。
「久居、まだ動くな」
「……クザン様……」
クザンの姿に、久居がようやくホッとした顔をする。
リルは、いつのまにか母の腕を抜け出して、治癒の邪魔にならないよう、レイと二人で遠巻きにその光景を眺めていた。
「あ。久居の安心した顔。久しぶりに見た気がする」
リルが呟くと、レイがどこか感心した様子で答える。
「あんなふやけた顔もするんだな」
「久居はふやけてないよ」
キッとレイを見上げるリルに、こいつ久居の悪口には反応早いよな……と、レイは面倒な気分になった。
久居の視線がこちらを向いたのを良いことに、レイはそちらに話を振る。
「ほら、久居がこっちみてるぞ」
「あ、ほんとだ。久居ー。僕は元気だよー。環も無事だよー!」
リルがブンブン手を振ると、久居が微笑んで返した。
意識が戻った久居は、自身の腕の治癒をしながら、クザンに治癒されていた。
「よし、もう喋っていいぞ」
胸の穴をすっかり塞いで、クザンが言った。
クザンは、続いて久居の太腿の傷へと手を伸ばす。
久居が「それは私が……」と言いかけるも、クザンに「俺がやる」と被せて言われ、しゅんと黙った。
申し訳なくて堪らないといった様子の久居に、クザンは内心苦笑する。
「お前はまだ血も足りてねぇだろ。大人しくしとけ」
「はい、ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。リルを助けてくれて、ありがとな」
クザンの声が、いつもより柔らかく響く。
「いえ、そんな……」
恐縮する久居に、クザンは叱るように、言い含めるように、言った。
「だがな、久居。リルに一発も入れねぇように戦うのはもうやめとけ。
あいつが二〜三発食らっても、お前が無事ならお前が治してやりゃいい。
リルと二人で動く時には、お前が生き抜く事を第一に考えて動けよ?」
「は……」
真剣な眼差しで諭すクザンに、せめて目を合わせて応えるべく視線を上げかけた久居が、ギシッと固まる。
クザンの背後からヒバナが「リル様が傷付くくらいならお前が死ね」と言わんばかりの眼光を放っていた。
「ん?」
クザンが久居の固まった原因に思い当たる。
「おいこら変態。顔で喋んな。一生黙ってろ」
クザンが冷たい声で突っ込むも、変態は幸せそうだ。
「……失礼ですが、後ろの方は?」
久居が声を潜めて聞いてくる。
ヒバナはツノも耳も隠していなかったので、少々の小声では筒抜けな事は久居にも分かっていたが、ここは気持ちの問題だった。
挨拶をするべきかと思案している様子の久居に、クザンはほんの少し眉を寄せて「あいつに声をかけるのは、怪我が治ってからでいい」と答えた。
「リル君とレイ君もお茶しない? リリーのクッキー美味しいわよー」
カロッサとリリーは、敷布の上に座り込み、お茶の時間を楽しんでいた。
「ボクも食べるーっ」
「……お、お言葉に甘えて……」
そこへさらに二人が上がり込む。
一人は飛び込むように。もう一人は遠慮がちに。
わいわいと取り止めのない事を話し続ける女達の会話は、尽きることがない。
楽しそうなカロッサとリリーの姿を、顔を上げたクザンが幸せそうに眺める。
久居の太腿の穴は、元通りに埋められていた。
「……お二人は、仲がよろしいのですね」
久居の呟きに、クザンがリリーから目を離さないまま答える。
「ああ。リリーがじーさんとこで修行を始めたのが……十四だったか。その頃カロッサは十一くらいじゃねぇか?
それから五年は一緒に暮らしてたんだ。じーさんは他に人を置いてなかったしな」
なるほど。二人は姉妹のような、学友のような関係らしい。そう受け止めた久居が相槌を打とうして、クザンの瞳が後悔に染まっていることに気付く。
「……俺が、連れ出さなきゃ、あの二人はもっと長く一緒にいられたんだがな……」
「クザン様……」
久居に気遣われた事に照れ臭さを感じたのか、クザンは昔のことだとばかりに、笑ってみせる。
「ちょっと考えりゃ分かるような事も、分かろうとしねぇ、馬鹿だったんだよ、俺は」
途端、一生黙れと言われたはずの男がクザンの背後で号泣する。
「ぉぉぉぉぉおおおおいたわしや玖斬様ぁぁぁぁ」
「あ、もういいぞ変態。助かった」
背に張り付くヒバナを引き剥がしながら、クザンが礼を言う。
ズビーッと大袈裟に鼻を啜るその姿から、じわりと距離を取りつつ。
「はっ!! 玖斬様の御為でしたら、私めの血などいくらでもお使いください!!」
ヒバナが姿勢を正したところで、クザンは久居に向き直る。
「久居、こいつは血液タンク役の、変態だ」
クザンの紹介には、どこにも名前が入っていない。
久居は突っ込みきれないままに、挨拶をした。
「久居と申します」
「俺一人の血じゃちょっとばかし足んなくてな、お前の血の補充に使っちまった。悪ぃな、こんな変態の血入れて……」
クザンは本気で申し訳ないという顔をしている。
それに久居は若干戸惑いつつも、地に膝をつき、最大級の礼を捧げた。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございます」
その……と、変態と呼ばれている男を見上げると「火端です」と冷ややかに返される。
「クザン様、ヒバナ様」
その名を呼び、久居はさらに深く首を垂れる。
「おう、気にすんな」
いつもの気安い笑顔でニカっと答えるクザン。
一方ヒバナは返事をする気は無いようで、ただ冷たく久居を見下ろしている。
クザンは、やはりどこか言いにくそうに、確認した。
「菰野を治す時にも、こいつの血を使おうと思ってんだが……いいか?」
久居が切長の目を大きく見張る。
「ぁ、ありがとうございます!!」
久居の声は、感謝のあまり震えていた。
深々と頭を下げる久居に、クザンがふっと目を細め、温かな眼差しを向ける。
途端、ヒバナから不穏な空気が漂った。
久居は、ぐっと心臓が握り潰されそうな感覚に、息が詰まる。
そこへ、不穏な気配がもう一つ増えた。
「……おい、変態。てめぇさっきから久居に態度悪りぃぞ。俺が気づかねぇとでも思ってんのか?」
クザンの檜皮色の髪が逆立つように揺れると、ヒバナがピタリと圧を引っ込めた。
「そそそそそのような事は決して!!」
クザンが、逃げようとする変態の頭を両手で掴んで視線を捉え、低く怒りのこもった声で告げる。
「いいか、よぉく覚えとけよ。
この久居が居なかったら、リルは死んでる。今も、三年前も、これからもな。
こいつはずっと、リルの命の恩人だ。分かったら、即刻態度を改めろ!!」
「はいぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
変態の悲鳴を聞きながら、リリーが呟く。
「あらあら……」
カロッサも「とうとう怒られちゃったわねぇ」と苦笑しながら続ける。
「ま、時間の問題かなーと思ってたけどね」
「そうねぇ。あの人、人間好きじゃないものね……」
リリーは、どこか同情するような声だった。
カロッサは指をピッと一本立てて言う。
「好きじゃないっていうより憎んでるのよ、あれは」
「そうなのかしらねぇ。でも、憎まれ具合なら、私も負けないわよ?」
そう言って、リリーはクスクスと可愛らしく笑う。輝く金色の髪がさらさらと揺れた。
それを見ながら、カロッサがうんざりと当時を思い出す。
「いや、もう、あの時は大変だったんだから……」
クザンとリリーが駆け落ちした当初は、ものっっっっっっっすごく大変だった。
何せ、両家からの使者達が、次から次へとカロッサ達の暮らす家に来るのだ。
憤りや悲しみを露わにするそれぞれに、家にはもう居ないし居場所も分からないと説明するだけでも、カロッサ達には一苦労だった。
「ふふふ、ごめんなさいね」
ふんわりと、リリーが微笑む。
「ま、過ぎた事だわ。今二人が幸せならそれで、ね」
カロッサも笑い返す。
今はとにかく、この時間を大事にしたい。
多忙なリリーには日々の時間が無かったし、カロッサには、残された時間そのものが少なかった。
二人は、他愛ない話をしながらも、次離れれば、もう相手には二度と会えないかもしれない。と互いに気付いていた。