16・恋するココロ



 その日は突然にやってきた。


「では行ってきますね」


 まるで近所に買い物にでも行くかのように、アリシアは笑顔で部屋を出た。

 侍従長から業務を言い渡された白の侍女は、午後十時きっかりにカイル殿下のご寝所に向かうのだそう。


 アリシアが部屋を出てからというもの、このあいだ回廊で出くわした皇太子の美貌を思い、大切なルームメイトのアリシアを想い……二つの想い同士が重なりあってセリーナは少しも落ち着かない。


 あの美貌の皇太子とアリシアが、肌を重ねるのだろうか。

 気恥ずかしさで胸がいっぱいになり、頭をブンブン振って想像の雲をかき消す。


 ——お城に来てからすっかり妄想癖にっ。私が緊張したって仕方ないのに。


 寝台に入ってみても気になって、どうにもこうにも眠れやしない。

 今頃、アリシアと皇太子殿下は……。

 いかがわしい想像ばかりが立ち上がるが、これは『業務』、仕事なのだ。


 心に言い聞かせてぎゅっと目を閉じる。


 ——この業務を望んでいたアリシアなら、きっと大丈夫。


 買い物から戻った母親のように「ただいま!」と言って、いつも通りの冷静さで感想やなんかを話してくれるだろう。




 *




 二時間ほど経った頃、カチャリ……部屋の扉が静かに開かれた。

 この時間になるまで少しも眠れずにいたセリーナが寝具を跳ねのけて身を起こす。


「アリシアっ、お……おかえりなさい」

「セリーナったら、起きててくれたの?」


「なんだか眠れなくて。それより、どうでした……? 初めてのおしごと……」


 不安と心配を顔中に滲ませているセリーナを見て、アリシアはふ、と微笑んだ。


「あんなの、ちょろいものでしたよっ!」

「ちょ、ちょろい……?」

「ええ、全然へっちゃらでしたよ。と言うか、眠れないほど私を心配してくれていたのですか?」


 心配は、やはり杞憂きゆうだったに違いない。

 いつもと変わらないその穏やかさに、セリーナはひとまず胸を撫で下ろす。同時に感心してしまう……アリシアはの匂いがする、と。


「心配と言うか、私もこのあいだ皇太子殿下のお顔を拝見したので……変な想像が膨らんで落ち着かなかったって言うか」

「やだ、変な想像なんて!? 恥ずかしいからやめてくださいっ」


 アリシアが笑うのを見て、ようやく安堵した。


 ——どうやら彼女にとってこのお仕事は、本当にかったようですね……?


「そうだ、アリシア。眠る前に少しだけアムレット、一緒に飲みませんか?」


 アムレットは甘いお酒だ。

 お酒は飲み慣れていないけれど、まだ興奮ぎみだから、少し飲めばよく眠れるかもしれない。

 パントリーに向かおうと、セリーナがアリシアに背を向けたとき……


「待って……!」


 突然、腕を取られた。

 驚いて振り向けば、アリシアがセリーナの腕をつかんだままうつむき、肩を小刻みに震わせている。


 ———え……?!


「あの、どうかしましたか?!」


 見れば翡翠のようなアリシアの瞳が、涙をこぼしていた。


「……どんなにお慕いしても、どんなに手を伸ばしても届かない絶対的な存在、その人に抱かれるの。最初は嬉しかった。ドキドキしたし、幸せだと思った。でもそのうちに気が付いた……何かが違うって」


 セリーナの肩に置いた手を滑り落としながら、崩れ落ちるように座り込む。静かな嗚咽とともに、両目から大粒の涙が溢れ出す。


「感情がこもらないものには、何の喜びも説得力もない。これが私たちの『責務』なんだ、これはお仕事だから仕方ないって……何度も何度も自分に言い聞かせて……。それでも身体は正直だから応えてしまう。感情を持たない彼の手に」


「アリシア?!」

「可笑しいでしょう、ずっと……今日の日を望んでいたはずなのに。どうして……こんなに悲しいんだろう……っ」


 せきを切って溢れ出してしまった言葉を拾い集めながら、セリーナは弱々しく震える肩を抱きしめた。

 華奢なアリシアの背中からは、皇太子の香りがする。



 セリーナは、隣で穏やかな寝息を立てている《戦友》を見遣った。

 アムレットの手伝いも効かず、すっかり目が冴えてしまって眠れない。


 ——よほど心が辛かったのですね


 高貴で誇り高い女性のお手本のようなアリシアが。

 沈着冷静な彼女が泣きながら取り乱す様子は、正直ショックだった。


 ——それにしても皇太子殿下の所業! 冷酷だという酷い噂は本当だったのですね。

 ご自分はいい思いをされてるでしょうけど、『宵の業務』だなんて夜伽を強制して、こんなふうに女性を泣かせて。

 これでは皇太子という身分の傘を着た『悪行』じゃないですか。


 アリシアの涙のおかげで、大事なことに気が付いた。

 好きだとか嫌だとか、恥ずかしいとか怖いとか……この仕事に感情を持ち込んでしまったら、きっと務まらない、その時点で負ける。


宮廷ここに来てまで、負けたくない……」


 消化できない気落ちを抱えながら、セリーナは目を閉じた。


 ——私は何があっても、絶対に泣かされたりしませんからっ。


 そして数日後。

 セリーナもいよいよ、おそれていたその時を迎えることになる。




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