――ん?
僕はふと、教室の戸口に一瞬誰かの気配を感じた。クラスのヤツなら真っ直ぐ中に入ってくるはずだし見物人なら隠れる理由もない。
僕は黒板消しを放り出し、床を蹴って一瞬で戸口まで移動した。
はたから見ると僕が消えたように思うだろう。
「お前ッ――――――あれ?」
しかし賊の姿はどこにもなかった。
(ん? 廊下の窓が開いているぞ)
僕は開け放たれた窓から校舎裏を覗き込んだ。
……やっぱり。
僕は『伊緒里ちゃんを狙う例の賊』が花壇の脇を高速で走り抜けていくのを確認した。
背後に気配を感じ振り返ると、そこに伊緒里ちゃんが立っていた。
「黒板消し床に放り出して、どうしたの? 雨降りそうだから窓閉めておいてね」
「う、うん。ちゃんと閉めておくよ」
――気付いて、ない?
伊緒里ちゃんは学級委員然としたクールさで言うと、登校してきたクラスメートに涼やかに挨拶をしながら教室に入っていった。
「あ……、財布忘れちまった。みんな先に行ってて」
昼休み、皆で学食に行く途中で財布を忘れたのに気付いた僕は、一人で教室に取りに戻った。今でもあまり人目に付きたくなかった僕は、薄暗くてあまり生徒の通らない一階の渡り廊下を歩いていた。
その時、何かが空を切る音がした。とても微かな音だ。
「ぐあッ!」
次の瞬間、鋭い痛みが僕の腕に走った。
大きな蜂にでも刺されたような、すごく鋭い痛みだ。
見ると、カッターの替え刃が三本、ワイシャツの生地を貫通して僕の腕に突き刺さっていた。刃が薄いので出血は少なく、刺さった部分だけ生地が赤く滲んでいる。
「だ、誰だ!」
僕は刺さった刃を一本一本ひっこ抜いて、廊下に投げ捨てた。
シャリン、と金属質な音が響く。
「これは警告だ。八坂伊緒里の周りをウロウロするな。次はこの程度では済まないぞ」
どこからか声がする。……渡り廊下の屋根か!
「クソ! 降りて来い!」
僕は屋根の上の犯人を捕まえようと、腕の傷を押さえながら急いで渡り廊下の外側に出た。でももう遅かった。ヤツはさっさと逃げてしまった。
やたら跳びはねるヤツめ。僕はそんなに機動力高くないんだぞ。
「あ……ワイシャツの血糊、どうすっかなあ……。絶対追求されっぞコレ……」
僕は渡り廊下のそばにある用務員室に駆け込み、傷にガムテープを貼り(どうせすぐくっつく)ワイシャツの袖を水で洗った。
転んで破けたことにすればなんとかごまかせる。
☆
そんなこんなで放課後だ。
掃除当番の僕は伊緒里ちゃんの命で一緒に焼却炉までゴミを運んでいる。
僕一人でも平気だって言ったんだけど、どうしても一緒に行くと言ってきかないので、こうして二人で校舎の裏側を歩いているんだ。
本土と同じように、この南国の島でも校舎裏には花壇や池がしつらえてある。ただ、その中身はさすがに違うようだけども。
ゴミを焼却炉に放り込んで教室に戻ろうとすると、伊緒里ちゃんが奥の花壇の方に用事があるから来いという。
ついていくと、今は使われていなさそうな、古い温室の前まで来た。
室内には古いプランターや植木鉢などがたくさん積まれて倉庫になっているようだ。
伊緒里ちゃんがふと立ち止まると、振り返って僕に話しかけてきた。
「威くん、海や空たちと、一体何をコソコソと企んでいるの?」
そのやや強い語気には責める色合いが混じり、僕に突き刺さってくる。
彼女は、背をやや反り気味に、張った胸の上に組んだ腕を乗せ、足を肩幅に開き、ハンパない威圧感で僕をまっすぐ見つめ……いや睨んでいる。
これはどう見ても『ちょっとどういうことか説明してくんない、男子ぃ?』スタンディングである。
ぶっちゃけ僕は今ピンチだ。
……バレてたのか。なるべく怪しまれないように、弟くんたちと仲良くおやつを食いつつ狩りまくってたのに。一体何がいけなかったんだろう?
僕の動揺に影響されたのか、空は厚い雲に覆われ、ゴロゴロと雷鳴が響きはじめた。
……最早隠し立ては無意味ということだろうか。でも、あの子たちが怒られるような事態は避けなければ。
僕は意を決して口を開いた。
「べつに企んでるわけじゃない。僕の意思で彼等に協力しているだけだよ」
「協力……」
伊緒里ちゃんの顔が一瞬青ざめた。
僕が真相を知っていると困るんだね。
そりゃそうか。優等生な伊緒里ちゃんにとって、これは許し難い状況だろう。
今まで必死に取り繕ってきたのだから。
「お姉ちゃんがストーカー被害に遭ってるって相談されたんだ。でもお父さんを心配させたくないから、僕にこっそり見守ってほしい……って。だから」
「ストーカー、って言ってたの?」
伊緒里ちゃんが、ちょっとホっとしたように見える。
「うん。僕も、伊緒里ちゃんが被害に遭ったらイヤだし。それに……護りたかった」
伊緒里ちゃんは安堵の表情を浮かべ、でもすぐ厳しい顔で僕に言った。
「威くんの気持ちは嬉しい。すごく嬉しい。でもこれはすごく個人的な問題で、弟たちがお願いしたとしても、イクサガミ様である威くんに手伝ってもらうわけにはいかないの」
僕らの間に、見えない壁が出来たように思えた。