第11話 追加

「黒い部屋、ですか?」

「えぇ。最近若者の間では有名な心霊スポットらしくって」

「黒い部屋……黒い部屋ねぇ……」

 今日も朝から頑張ったご褒美のアップルパイを一口頬張りつつ、鷹羽雪緒たかばゆきおは「うーん」と視線を窓の外に投げた。

 赤い部屋、という都市伝説ならば結構前にあったな、と思う。都市伝説というか、ネットのオカルトというかそんな感じだったような気もするが。

 オカルトで言えば似たようなタイトルのホラー小説はあった。映画化に伴ってなんとなく読んでみたがそこそこおもしろかったような記憶があるものの、多分ここでマスターが言いたいのはそれではないだろう。

 サクッと切ったアップルパイにバニラアイスを乗せつつ、

「あのホラー小説、とかじゃないですよね」

「違いますね。あくまでも部屋、らしいですよ」

「黒い部屋……黒い部屋、ねぇ」

 どうやらマスターも一緒に昼休憩をとるつもりらしく、サッと食べられそうなホットサンドが乗った皿を持って鷹羽の向かいに座る。

 最近の鷹羽は以前と比べて頻度を上げて喫茶店に足を運んでいた。あの時迷惑をかけたから、というのもあるし、どうやらマスターと彼女の娘の千百合もえるタイプであると知ってからは親近感と言うか安心感というか、なんと言葉にしていいのかはわからないがそんな感じのものを抱くようになったからだろう。

 鷹羽の霊感のようなものは子供の頃は顕著に強かったけれど、大人になってからはそんなに強かった記憶はない。

 たまに電信柱の所にそっと置かれている花束に視線を持っていかれたり「あ」と思うような場所はあったけれど、その程度だ。

 子供の頃のそういう体験は大人になれば消えていくから、本当に意識をしていなかった事でもあった。

 それがなんで今さらまたえるようになったのかなんていうのは、わからない。

 マスターに聞いてみても「そういうのは人それぞれだから」と言われただけで、鷹羽としても「それもそうか」としか思えなかった。

 それにしても黒い部屋、というのは気になる。

 黒いなんとか、とかそういう類のものはオカルトには結構ありがちだが、若者の間で有名な心霊スポットと言われると……しかもそれを教えてくれたのがマスターともなると気にならない方が無理な話だ。

 アップルパイを綺麗にいただいて最後にアイスティーを頂きつつ少し、考える。

「マスターがそういうの気にするの、意外な気がします」

「そうかな?」

「お客さんから聞いたとか?」

「お客さん……といわれれば、お客さんですね」

 ふぅん、と思いながらアイスティーを飲み干しつつ、周りの席を伺う。

 この喫茶店は繁盛していないわけではないのだろうが、鷹羽が来る時は大体あまり人がいない。丁度昼休みの時間帯だし喫茶店にはお得なランチセットなんかもあって味だって美味しいのになんでこんなに閑古鳥が鳴いているのだろう。

 その割にはマスターは慌てている素振りもないし、いつだって店内は綺麗でたまにアップルパイが売り切れていて泣きを見る時だってある。

 はて、いつ頃この店には人が居るのだろうか。不思議だ。

 まぁ、お陰でマスターと食事を一緒に出来るのだから鷹羽としては楽しくてありがたい事なのだが。

「あ、やべ。もういかなきゃ。お会計お願いします」

「お疲れ様ですね」

「もうマジでここが癒やしですよ」

 ぼんやりしながらアイスティーの余韻を楽しんでいると、丁度昼休みが終わるまであと10分程の時間になっていた。

 ここに来るとつい時間を忘れてしまうからと事前にかけていた携帯のタイマーがブーブーと音を立てて振動したので、慌てて財布を取り出す。

 マスターもいつの間にか食事を終えていたらしく、自分のトレーを持ってレジまでいそいそと移動する。

 ついでなので鷹羽も自分のトレーを持って行けば、マスターは目を少し丸くしてから薄く微笑んで「どうも」と言う。

 それだけでもちょっと嬉しいのは、大人になってから友人というものを作る事が少なかったからだろうか。

 SNS上ならばともかく仕事も趣味も関係ないリアルで新しく友人が出来るチャンスなんて、そうそうない。

「あぁそうだ鷹羽さん。今夜お時間ありますか」

「今夜ですか? 大丈夫ですけど……」

「黒い部屋についてちょっと話を聞く予定があるんですけど、よければ来ませんか」

 裏口開けておきますから。

 マスターの”裏口”という言葉にピクリと反応してしまうのは、もうしょうがないと思う。

 差し出した千円札2枚を受け取ってお釣りと一緒に鷹羽に渡されたのは、一枚の栞だ。何も書いてない栞だが、鷹羽はもうこの栞の意味を知っている。

 喫茶店を出て編集部へ戻るまでにある一本の路地。その路地の奥――まるで喫茶店と背中合わせになるように存在しているシャッターの降りたその店、【黒猫茶屋裏口古書店】には、この栞がなければ入れないようになっている、らしい。

 未だにそれが本当なのか、本当にこの栞にそんな力があるのかは鷹羽にはわからないけれど、マスターが言うのならそうなのだろうと思ってしまって、大事に手帳に栞を挟んで折れないように気を使う。

 鷹羽が【黒猫茶屋裏口古書店】に足を踏み入れたのは過去に二度程。

 不可抗力で店の中で失神をしたのが一度と、その後マスターの持っていた「本」をしまうのを見せてもらったのが一度だけだ。

 つまりはマトモにシャッターを開けて中に入ったことはなく、その店の全容すらわかっていない。

 ついに今日そこに足を踏み入れるのか……と思うと、すでに中は分かっているのになんだかドキドキしてしまう。

 何しろ一見すればただの古書店にしか見えないあの店の中に合ったのは普通の本ではなかったのだ。

 鷹羽の少ない語彙力ではどう表現していいのかもわからない、不思議なもの。出来ればもう二度と見たくはないのだが見ないためにはあそこを回避しなければいけないわけで、それはもう叶わない話、でもある。

 あんな風に誘われておいて行かない、なんて選択肢は、流石に、ない。

「あー……どっこいしょ」

「鷹羽、年寄りかー?」

「まだギリ20代だわ……と」

 外から編集部に戻ってくると、空気は一気に変わってくる。

 あの喫茶店がほんのり甘いいい匂いがするからか、外に出てアスファルトと夏の匂いを嗅いでからから編集部のちょっとジメッとした紙とインクの匂いに変わると鷹羽の頭を仕事モードにするにはぴったりだ。

 昼休みが終わるまではあと2分だが、コーヒーを持ってくるには十分だろう。

 一応ノートパソコンを開いてログインさえしておけば、一度離席のためのログアウトを挟んだ所で「居なかった」事にはならない。

 だが、一度ログインパスワードを入力してログインボタンを押した鷹羽は、思わずまた「げっ」と小さく声を出していた。

 隣の席の同僚がチョコのかかったクッキーにかぶりつきながら不思議そうに鷹羽を見るが、それに応じる余裕もなく鷹羽はへなへなとデスクで頭を抱える。

 コーヒーを持ってくるのを忘れたが、もうそんな気も失せた。

 折角さっき食べたアップルパイの余韻が残る口内にも、なんだか苦虫を噛み潰したみたいな味がする、気がする。



【いつもと変わらぬ日常だったはずだった。見てはいけないものからは目をそらし、変化のない日常の中に小さな楽しみを見つけながら生きていく自分に満足もしていた。だというのに、ソレは着実に近くに居る。見てはいけない、視てはイケナイのだと分かっていても、知らないフリをすることはもはや、出来なかった――】



【いつもと同じ日常は、ある日突然瓦解する。噂に都市伝説、拡散されていく何の気のないただの言葉は、しかし確かに人々に認識されていった。黒い部屋の中で、その子供は涙を流す。出して欲しい、助けて欲しい、自分は要らない、誰も求めない――悲しい叫びは徐々に自己への否定へ繋がり、誰もが末路と混ざって消える――】



 コイツの存在を忘れていたわけじゃない。

 あの黒い怪異に出会うまでも、出会ってからも、鷹羽のノートパソコンに居座っていた謎のあらすじ。

 そろそろ選考も終わろうかという頃だというのに、毎日律儀に消しているというのにあらすじは必ずひとつは編集ソフトの中に居座って、一番最初に届いたものは消えたけれど今度はふたつめのソレが消えてくれない。

 おまけに今度はみっつめのあらすじが届いている。

 なんだこりゃ、と言うのは簡単だが、最早鷹羽の脳みそには「なんだこりゃ」という言葉しか出てきてはくれなかった。

 黒い部屋の中で子供が涙を流す。

 その言葉は、ついさっきマスターから聞いた言葉の断片とほんの少し掠っていてそれもまた嫌な心地になる。

 どうか前回みたいにひどい目にあいませんように。あらすじの出現理由がわからない以上、鷹羽が出来るのはデスクの前で手のひらを合わせてそう祈る事だけだった。