第31話


 遠目にラナベルに気づいたレイシアは、方向を変えて邸からわずかに逸れた。……きっと厩舎に向かったのだ。

 その姿をぼうっと眺めていたラナベルは、しばらくしてやっと現実に追いつくと慌てて部屋を飛び出した。

 出来るだけ早く。そう思ったけれど、濡れた素足のせいで危うく階段を落ちかけたりとなかなか思うようにいかない。

 玄関戸を開けたときには、すでにそこにレイシアの姿があった。

 突然開いたドアを、レイシアは驚きつつもうまく避けたようだ。仰け反るように驚いていたが、ラナベルを認めると焦燥の浮かぶ様子で両肩を掴んできた。

「なにかあったのか!?」

 すごい剣幕に、咄嗟に言葉が出ない。

「まさか王妃の手の者か? 顔は見たか? 何人いた?」

「お、落ち着いて下さい。レイシア殿下」

 両肩を強い力で揺さぶられながら、ラナベルは察する。彼は時が巻き戻ったことでラナベルの身を案じて駆けつけてくれたのだ。

 なおも捲し立てるレイシアに、必死に誤解だと声を上げる。

 すると、みるみる勢いを失ったレイシアは、最後に揺れる瞳でラナベルを上から下まで見返して「そうなのか?」と半ば呆然と呟いた。

「大丈夫です、殿下。誰かに襲われたわけではありません」

「それなら、どうして時が巻き戻った……?」

 子どものように無垢な赤い目に問われ、ラナベルは言い淀む。

 以前のように自死したのだと口にすればいいのに、それが出来なかった。また、驚かせてしまうかもしれない。驚くだけでなく、今度こそ気味悪がられたりしたらどうしようか。

 そんな躊躇いが、胸の中で小さく居座る。

「そのままでは風邪をひいてしまいますから……中へどうぞ」

 濡れそぼったレイシアを前に、誤魔化すように中へと促した。

 本来なら休んでいるアメリーたちを起こし、万全の状態でもてなすべきだ。

 けれど、今はどうにも彼女たちと顔を合わせる気になれず、自分である程度のことができる自室に連れてきてしまった。

「少しお待ちください」

 ローテーブルの上の蝋燭に火をつけると、途端に寒々しかった部屋が温かく照らされる。

 夏に入ってめっきり使っていなかった暖炉にも火をおこした。部屋に薪はさほど残っていないが、少しの間なら問題はないだろう。

 大きめのタオルを用意して向き直ると、一連の流れをレイシアがずっと目で追いかけていたことに気づき、どうにも居心地の悪さを覚えた。

「すぐにお湯を湧かしますので、身体を拭いてお待ちください」

 半ば押しつけるようにタオルを渡して浴室へと向かう。その背中に、レイシアが訊ねた。

「襲われたのでないとしたら、お前はまた自ら命を絶ったのか……?」

 振り向くと、レイシアはいまだタオルを受け取ったままの姿勢だった。その姿が、答えをもらわねば動くつもりはないとそんなふうに感じられた。ラナベルは観念したようにふっと息をついた。

 逃げるように視線を床へと落とし、両手の指を結びながらこくりと頷く。

 分かっていただろうに、レイシアは衝撃を受けたようだ。

 固まった彼の髪や服からポタポタと滴が落ちていく。ふとラナベルは手のかかる子どもを前にしたような心持ちになって、苦笑しながらレイシアの手からタオルを奪った。そっと押し当て、撫でるように髪を拭いてあげる。

「俺たちが帰った後になにがあった?」

「……特別なことはなにもありませんでした」

 貴族から非難されるのは慣れている。――神殿から拒まれるのだって、それと大して変わらない。

 母が父や妹を恋しがるのも、何度も見てきた光景だ。

 ただ、タイミングが悪かっただけ。

 過去を思いだし、自分の罪がまざまざと蘇った日に、母のあんな姿を見てしまったから。

「驚かせてしまってすみませんでした」

 謝るラナベルを、レイシアは垂れた髪の隙間からじっと見ていた。

 雨風のせいで冷えた指がおもむろに伸びてきて、ラナベルの細い首にひたと当てられた。

 レイシアの手は、思っていたよりも皮膚が厚くかさついていた。

 急所に触れられたせいか、ドキリと高く心臓が跳ねる。

「……ラナベル。お前はどうして死ぬんだ? 死ぬためか? 巻き戻るためか? それとも、あの母親が死ねと言うからか?」

 首元をそっとさする手は、今はもうない傷を探すようだった。それを追う瞳は、キッと睨むようで怒っているように見えた。その怒りがラシナへ向けられているのだと、語気の強さで分かった。

 自分のために怒ってくれている。それが嬉しくて……そして、見当違いな言葉に思わず吹き出すように息が漏れる。

「私が、母のために死んだのは最初の一度きりだけです」

 誰かのために死に続けられるほど、ラナベルは人の良い人間ではない。

 シエルが亡くなってから、ラナベルは悲しむ暇も絶望する余裕もなく、懸命に母の看病に当たっていた。

 悲しみや絶望よりも、みるみる痩せ細っていく母への恐怖のほうが、あの頃のラナベルには大きく感じられたのだ。

 どうか元気になって欲しいと献身的に話しかけ、世話をした。けれど、母は泣くことや怒鳴ることはあっても、決して笑いかけてはくれなかったし、労ってくれることもなかった。

 そうした生活が二年は過ぎた頃――不意に我慢ならなくなったのか、ラシナが一際髪を振り乱しながらラナベルの頬を打った日があった。

 仇でも見るような激情に燃える瞳で床に倒れたラナベルを見下ろし、「わざと見殺しにしたのでしょう!?」と叫んだ。

 ――私がシエルにばかり構うからって、本当はあの子のことを嫌っていたでしょう!

 今まで溜め込んできた思い全ては吐き出すかのような慟哭に、ラナベルは自分のなかの張り詰めていた糸がぷつりと途切れてしまったのが分かった。

 何度も振り払われても伸ばし続けた手を、再び持ち上げるだけの気力はラナベルに残っていなかった。

 そのときのことを思い出したラナベルの口許が自嘲するように歪み、そうして身体の奥の奥から漏れ出たような深い息をついた。

「ああ……お母様は私が淋しがっていることを知っていて――シエルに嫉妬していることを知っていて、それでもなお私を放っておいたのだと」

 そう気づいた途端、こっちを見て欲しいと願っていた幼い子どもの祈りは途絶え、ラナベルはラシナへ向けていた愛情や家族といったつながりの全てを諦めた。

「思い知ったその日に、初めて命を絶ちました。母に死んでくれと言われたのもありますが、私のことを本当に愛してくれていたのはシエルしかいなかった。そんな妹に嫉妬していた自分が、死なせてしまった自分が、どうしようもなく浅ましく卑しい者に思えてならなかったんです」

 こんな自分ならば、母の言うとおり死んだ方がいい。当時十一歳だったラナベルはそう思った。

 もちろん死の淵のシエルを前に、妬心を過らせたことなど一度もない。けれど、結果としてシエルはラナベルのせいで死んだ。死なせてしまったのだ。

 そう思うと、自分が生きていることが狂いそうになるほど許せなかった。

「自分が死に戻ることが出来ると知ってからは、ただ自分のために死に続けています。シエルにまた会いたい。あの子を救いたい。そして、救うことが出来たのなら……そうしたらこの罪も許されるような、そんな気がするのです」

 ラナベルの一度の巻き戻りは、最長でも三日ほどだ。けれど、死ぬ回数に制限があるわけではない。

 戻った先ですぐにまた死ねば、どんどん時を遡ることが出来る。

「死に続けることさえ出来ればシエルを救えるんです……でも、私は――!」

 秘密を打ち明けるように囁く言葉が、不意に強く揺れた。

「一年ほどだったと思います。百回ほど死に続けて巻き戻ったことがありました……シエルの死んだ日まで続ければ救えたかもしれないのに、私は死ぬことをやめたんです」

 死ぬことに恐怖があったわけじゃない。ただ、巻き戻り、死んで、そしてまた死んで――間髪入れずに首に刃を刺し続けているうちに、ラナベルは自分の身体が心がおかしくなっていくのを感じていた。

 今はいつなのかも分からない。自分が立っているのかどうかも判別できないように頭の中がグチャグチャになっていって、視界さえ歪みだし、そこで初めてラナベルは自分というものが壊れていくことに未知の恐怖を抱いた。

「救いたいと言いながら、私はその恐怖に負けたんです」

 口に出しながら、どこまでも自己本位な考えだと失笑してしまった。

「これでは命への冒涜ですね。インゴールの祝福を受けた一族だというのに……こんな人間だから私は祝福を失ったのでしょう」

 重い沈黙を振り切るように笑って見せたが、ぎこちなく頬が上がっただけだった。

 気づけば視界が潤み、慌てて目許を拭う。そんな揺らめく碧眼を、レイシアはただじっと見つめていた。

 不意に、こらえきれずにはらりと一粒だけ涙が落ちた。それは血の気の引いた真っ白な頬を滑り、首元に添えられたレイシアの手に当たって弾けた。

「ほかの貴族が嫌うのも当然です。神殿だって、このような冒涜者を神聖な場所には入れたくはないでしょう……私のせいで迷惑をかけてすみません」

 それまで静かに話を聞いてくれていたレイシアだったが、ラナベルの謝罪には異を唱えるようにキッパリと言い返した。

「それはお前の辛さを示すものにはなれど、お前に石を投げる理由にはならないだろう」

「殿下……?」

 戸惑うラナベルを余所に、レイシアはほっそりとした首筋を見つめる。さっきまで痛々しいものを見るようだった瞳に、ふと親しい者を見たような温かさと労るような切なさが混在する。

「どうして気づかなかったんだろう……俺が兄上の仇を見つけたいと願うように強く、お前はお前自身を罰したいんだな」

 ようやく分かったと、言外にそう言いながら、レイシアはそろりそろりと首元を撫でた。そこにない傷を――今までつけてきた傷の一つ一つを癒やすように、労るように優しく。

 気づけば、ラナベルの美しい碧眼からは押しとどめていた涙がハラハラと流れ出ていた。

 自分が泣いていることにも気づかず、半ば呆然とレイシアを眺める。

 慰めるその仕草を目で追い、かけてもらった言葉を頭の中でゆっくりと咀嚼していく。

 ――見て。あれが神に見放された人よ。

 ――私欲に走って祝福を自分勝手に使用するなんて卑しい人ね。

 ――姉への天誅に巻き込まれて亡くなった妹さんは憐れだわ。

 今まで投げつけられてきた言葉が、不意にまざまざと胸に返ってくる。あの日から、どれだけたくさんの言葉が向けられてきことか。

 けれど、ただの一度もラナベルの負った傷を憐れんでくれる者はいなかった。

 娘を失った母へ向けられる労りの言葉を、妹を失った姉へ向けてくれる者はいなかった。

 レイシアだけだ。ラナベルの痛みや悲しみに目を向けてくれたのは。

 この身のうちにたぎる自分自身への果てしない怒りを理解してくれたのは、彼だけだった。

 もうレイシアを拭いてあげることは出来ず、嗚咽が漏れないように両手で口許を隠した。

 ハラハラと静かに涙を流すラナベルを、レイシアはおずおずと抱きしめてくれた。

 嵐の中やって来てくれた彼の身体はびしょ濡れで、そんな腕に中にいればもちろんラナベルの身体も水を吸っていく。

 ネグリジェが重くなって肌に纏わり付く。それなのに、ラナベルの身体は――心は、どこまでも温もりに包まれて心地よかった。


 ◆ ◆ ◆


 日が昇る頃には強風も雨も止み、雲の切れ間からさしこむ清々しい陽が濡れた地面に降り注いでいる。

 濡れた草花がつやつやと輝く姿を、ラナベルは窓ガラス越しに眺めていた。

 そして、ふと門のほうへと目をやった。日の出前に帰って行った彼の背中を追いかけるように。

「大丈夫だったかしら……」

 泣いてしまったラナベルを、レイシアは慣れない手つきでずっと抱きしめ続けてくれていた。

 長い間そうしていたから、彼は着替えることもお湯で身体を温めることもせずに帰ってしまったのだ。

 なんでも、グオンに内緒で抜け出してきたから日の出よりも前に戻らないといけないからだとか。

 あのときはラナベルも自分の感情でいっぱいいっぱいで、引き留めることは出来なかった。が、こうして落ち着いてくると、今さらになって心配になってくる。

(あんなふうに取り乱したりして彼はどう思ったかしら)

 年下に泣いて縋るだなんて――思い出すと恥ずかしくてたまらない。けれど、不思議と身体も心も軽やかだった。

「お嬢様、失礼いたします」

 ノックとともにアメリーが顔を出す。すでに起きていたラナベルに驚くこともなく挨拶をしたと思えば、濡れ鼠なラナベルに気づくと真っ青になって駆け寄ってきた。

「ど、どうされたのですか!? 一体なにが……!?」

「ごめんねアメリー。お湯を用意してもらってもいい?」

「はい。もちろん……ですがこんなに濡れて本当になにがあったのですか?」

 怪訝さと心配の混ざった目に、ラナベルは窓の向こうをみてふと表情を柔らかくした。

 朝日が、そんなラナベルの軽やかな笑顔を輝かせる。

「少しね……雨ではしゃいで濡れてしまったの」

「雨で、ですか? お嬢様が?」

 ますます混乱してしまった様子に、ラナベルは悪いとは思いつつクスクス笑ってしまう。

 それでも主人に言われたとおりテキパキと動くのだから、本当にアメリーは優秀だ。

「そうだ。アメリー」

 あることを思いつき、ラナベルは浴室に向かうアメリーを呼び止めた。

「朝食はバルコニーに用意してくれる? 今日は気分がいいから外で食べたいの」

 そう言って笑うラナベルは、朝日のように清々しく美しかった。