第13話 甘いマスク

 そしてその弾丸は――外れた。

 高雅は目を見開いて硬直する。高雅が放った弾丸は、吹屋の首を掠め、もう一発は心臓付近に当たっており、その二カ所からじわりじわりと血が垂れていく。

 その瞬間、部屋中に甘い香りが溢れかえった。

 すると高雅の全身が、まるで石像になったかのように動かなくなった。手を持ち上げることも出来ず、高雅は困惑する。どんどん甘い香りが強くなっていく。その発生源は、吹屋の顔だった。即ち、高等知能を持つマスクだ。

「ああ、この体はもうダメだけれど、目の前に新鮮な体があって助かるねぇ」

 その声に、高雅は恐れおののいた。

 いつか斑目は理由が不明だと言っていたが、この甘い香りは、マスクが人間を硬直させるために用いるのだと推測可能だ。なにせ現在体感している。びっしりと高雅は汗をかいた。全身の毛が逆立っている。

「さて、移動するとしようか」

 吹屋の顔が、静かに剥がれ始めた。下には、皮膚をまるで焼かれたかのような、瞼と唇が癒着し、肌は爛れている顔があった。あれが、元々の吹屋の顔の残骸に違いない。

 そこから分離したマスクは、次第に青緑色になりながら、平べったい顔の形になり、吹屋の首を伝い、肩を伝い、腕を伝い、足を伝い、靴を伝い、最後には床に降りた。そして白い床の上を、ゆっくりと顔を上にして進んでくる。まるで平べったいお面が移動しているかのようだ。

「う、うぁ……あ」

 声帯は自由になるようで、高雅は怯えて声を上げた。

 マスクが、自分の靴の上に乗っている。それから脹ら脛を伝い、膝の上を通り、太股まで到達した。どんどん甘い匂いが強くなっていく。脇腹を、マスクが這い上がってくる。感触は冷ややかだ。それが腕を通り、ついに肩にのった。その後首の表面を通り抜けてから、いよいよ高雅の顔に迫る。

 そして高雅の顎に、マスクの額の部分が触れた。そのままマスクはねっとりと動きながら、高雅の顔を覆った。すると高雅の口の中に、マスクが放った液体が入ってきた。それは、とても甘い。マスク自体が、甘いようだ。甘いマスクは鼻に接着し、それから高雅の眼窩にも液体を放った。だがその液体は、まるで意思を持つかのように、眼球の周囲を通り抜け、頭の中へと入っていく。液体に覆われた眼球が、ピクピクと動いたのは、視神経にマスクの放つ液体が触れたからだろう。液体は、高雅の脳を目指しているようだった。高雅は涙を流すことさえ許されず、ただ心中で泣き叫ぶ。頭の中に、何かが入ってきたのがすぐに分かった。まるで意思を持っているかのような液体に、脳の一部を掴まれ、弄られている感覚がする。直後、高雅は意識を取り落とした。

 ――そして、高雅伊月という人間としての人格は喪失した。もう二度と、彼は戻ることが出来ない。何せ、命を落としているのだから。脳を戯れに弄くられて、意思ある液体で満たされたりしたら、誰だって死んでしまう。実を言えば、マスクにとってそれは愉快なことでもある。

「中々よい体だねえ」

 甘い香りが消失した時、高雅の唇が――いいや、高雅の顔面に張り付き、高雅の命を奪い、その体の統制権を得た、高等知能を持つマスクの唇が言葉を放った。高雅の顔になったマスクは、両頬を持ち上げて笑いながら、右手を見て握ったり閉じたりしている。

 それから瞬きをしたマスクは、床に落ちている先程までの宿主の体へと歩みよった。

「頭を潰して偽装しないとねぇ。さも、この体が勝利したかのように見せかけなければ、擬態が面倒になる。今から私は、第一係の捜査員なのだからねぇ。ああ、口調も変えないとな。少し乱暴な声を出していたらしい」

 高雅の記憶を読み取りながら、マスクは倒れている吹屋の頭部に排除銃をあて、完全に頭部を撃ち抜いた。血と脳漿が飛び散る中で、満足そうな目をして、高雅は遺体を見おろす。

「高雅!!」

 するとその時、焦ったような声を上げ、梓藤が戸から駆け込んできた。

「大丈夫か? ん……その遺体は……」

「俺、やれました。吹屋の頭を完全に吹き飛ばしました!!」

 マスクは擬態し、満面の笑みを浮かべる。その姿は、どこからどう見ても本物だ。目の前では、梓藤が目に見えて安堵した顔をしている。

「……これからは、単独行動は控えるように。今回は、運が良かっただけだ」

「お、俺の実力ですよ!」

「それも少しは……あるな。認める」

 梓藤はそう言って苦笑すると、ポンとマスクの肩を叩いた。

「お疲れ。帰るぞ。このあとお前には、山のように報告書を出してもらうから、覚悟するように」

「えっ」

「当然だろう、単独行動中に何があったのか、吹屋を撃った理由だとか。山ほど訊かないとならないぞ」

「それは勿論、排除銃がアナウンスしたからですよ!」

「そうか」

 早足で歩く梓藤を、慌てて高雅の顔をしたマスクが追いかける。

 そうしながらマスクは、脳裏で梓藤を嘲笑っていた。マスクを排除する特殊捜査局の中に、マスクがいるとは考えもしないのだろう。今日からは、高等知能を持つマスクの友人達にも捜査情報を流すことが可能だ。内側に入り込めば、敵である梓藤達を観察することは易い。

 その後駐車場へと出て、二人はそれぞれの車に乗った。

 雨はもう止んでいる。

 高速道路を抜けてから、マスクはコンビニに立ち寄ることに決めた。駐車して、中へと入る。そしてまっすぐにパンが売られているコーナーへと向かい、イチゴジャムが入っている、四角いサンドイッチを三つほど購入した。本当はイチゴのスイーツも欲しかったのだが、残念なことに手持ちが無かった。

 それから本部へ戻ると先に到着していた梓藤が改めて言った。

「メールで報告書について送っておいた」

 マスクは億劫だと思いつつ、擬態には必要だと考えて、しぶしぶ頷くことに決める。

「はい」

 これは間食しながらでないと、やる気が途中で消えそうだと判断したマスクは、三つのイチゴサンドを、デスクの脇に並べた。

「俺はこの後も会議だ、報告書を今日中にまとめておけ」

 厳しい声でそう告げて、梓藤が一歩踏み出す。そしてマスクの真横で不意に立ち止まった。

「どうかしましたか?」

「いいや、なんでもない」

 梓藤はそう述べると、早足で本部を出て行った。

 その姿にマスクは、本部の人間の誰一人として、マスクだと気づかないなんて笑ってしまうと思いながら、二人いる人間の観察をした。高雅の記憶に寄れば、一人は静間。もう一人は、非番だったが呼び出された様子の坂崎という人間だと理解する。

 高雅はそれ以上の事は、あまり深く知らないようだった。

 つまり役に立たない記憶も多いのだろうと考えつつ、マスクは報告書の山に取りかかる。