話を聞き終わり、マルティス医師を解放したあと。
定例会議をしている隣の部屋まで再び足を向けた俺は、未だ休憩中なのか、再開されていない会議を好機と見て……。
一度、部屋の中を見渡したあとで、アリスの担当医をしている人間を見つけ、近づいていく。
確か、この男の名前はロイという名前だった筈だ……。
「アリスの担当医だな?」
「……えぇ、そうですが。
ウィリアム殿下、私に何か御用でしょうか?」
俺が率先して声をかけてくるとも思っていなかったのか。
声をかければ、驚いたような表情を見せたあとで、少し躊躇った様子ながら慎重に、俺に向かって問いかけてくるその男に……。
「聞きたいことがある」
と、声を出したあとで。
「今、アリスが体調不良で砦に行っているだろう?
アリスの体調は普段、どんな感じなんだ?」
俺が一言、そう言えば周囲にいた医師なども聞き耳を立てていたのだろう。
誰もが、俺の口からアリスの名前が出たことに驚いた表情を浮かべるのが見える。
俺の問いかけに目の前の男は少しだけ目を見開いてから、周囲へと一瞬だけ目配せをする。
その仕草で、俺は性急にアリスのことを問いかけたことを、失敗したな、と内心で思いながら。
「……ここじゃ、あまりにも視線が多すぎるな。
場所を変えよう」
と、目の前の男に向かって声をかける。
「……ええ、ウィリアム殿下、承知しました」
俺の言葉に柔和に笑ったあとで頷き、目の前の男が俺についてくる。
廊下へと出れば俺たちの会話を聞いていた医師達はその内容を知りたそうにしながらも当然、誰もついてくるような勇気のある人間などいない。
これで目の前の医者の希望通り、少しでも話しやすくはなっただろう。
部屋から少し離れた
「それで、ウィリアム殿下。
……一体、私に、どのような事を聞きたいのでしょうか?
患者の個人情報については、例え殿下というお立場のある方であろうとも、おいそれと教える訳にはいきません」
と、目の前の医者の方から俺に向かって声を出してきた。
柔らかそうな雰囲気を漂わせているわりには芯の強い声だった。
例え、俺に対してだとしても。
自分の受け持つ患者の個人情報については教えられないときっぱり言ってくるその姿には好感が持てる。
「あぁ……。
だが、皇族としての命令ならば、答えない訳にもいかないだろう?」
はっきりとそう言えば、目の前の男は……。
「それが命令なのだとしたら、そうですね。
私に拒否する権利など何処にもありません。
“
と、そう声に出して俺に向かってさっきと同じように柔和な笑みを向けてくる。
【成る程な。
あくまで、答えられる範囲と制限をつけることで、後から言わなかったことがあっても問題のないように先手を打ってきたか……】
どうやら、かなり頭の切れるタイプらしい。
このような人間がアリスの傍に付いているのなら、アリスが体調不良でも、きちんとした対応をしているだろう。
アリスの過去のことや最近のことに関しては俺も既に調べがついているし。
この医者がアリスについて、しっかりとした診断書を父上に提出していたことは分かっている。
「もしも警戒しているのだとしたら、それは解いて良い。
俺はアリスの体調の状況が心配だから詳しく知りたいだけで、アリスに特別、何かをしようなどとは考えていない」
はっきりとそう口に出せば。
目の前の医者は一度、ふぅ、っと息を吐き出したあとで。
「失礼しました、殿下。
皇女様は生い立ちや置かれていた境遇から、未だ敵も多く、その判別は直ぐにつきにくい物ですから……。
ローラから最近、皇女様とウィリアム殿下が親しくしているということは聞いていましたが、殿下が本当に大丈夫なのかどうかの確証を得たかったのです」
と、隠すこともなく俺に伝えてきた。
ローラというのはアリスがかなり信頼していたアイツの侍女のことだろう。
独りぼっちだったアイツの事を心配して、ずっと傍にいてくれた侍女だった筈だ。
その侍女から俺の事が目の前の医者に伝わっていることを思うと、この医者は信頼出来るのだろう。
その確証を俺も今、目の前の男の言葉から得られることに成功する。
「殿下に対し、試すような物言いをしてしまい申し訳ありません」
「謝罪はいい。それで、アリスの状況は? 古の森に療養に行かなければいけない程、酷いものなのか?」
「……殿下が普段接する皇女様は、恐らくにこにこと笑っていたり、誰かと話すときに極端に緊張して、恐々としたような雰囲気で喋られたり、そのような状態なのではありませんか?」
焦れったくて、急かすように声を出した俺に対して。
目の前の医者は俺に向かってそう言ってくる。
確かに言われてみれば、アリスは昔に比べたらよく笑うようになっていると思う。
特にあの犬っころや、父上が紹介したというあのアルフレッドという子供に対して向ける笑顔はふわふわとしたような感じがある。
一方で、俺に向けては最初はおどおどしていたが、今は大分打ち解けてきてはいるだろう。
だが、アイツ自身、未だに誰にも愛されていないと思い込んでいるせいか、家族として、愛情関連のことに関してはかなり消極的だ。
この間、俺に向かって……。
【あ、あのっ……お兄さま、ごめんなさい。
今、わたし、何かして欲しいことが出来た時にって言っちゃったんですけど……。
あの、そのっ、嫌じゃなければっ。
わたし、お兄様のこと、本当の家族だって、思っても、いいです、か?】
怖ず怖ずと、そう言ってきたときには本当に胸が痛むような思いがしてきた。
願いなどと、そんな風に言わなければ、其れが手に入ることなどないと思っているあたり。
今まで、アイツにとって愛というものが、当たり前に叶えられてこなかったことの何よりの証拠だろう。
「あぁ、俺と接するときも、あれでも、随分マシにはなった方だとは思うが。
未だに緊張したりしている部分もある、というのは否めないだろうな」
俺がそう口に出せば、目の前の医者はこくりと頷いて。
「えぇ、体調と言っても、一概に目に見えるような病ばかりではありません。
皇女様の場合は、ずっと愛されてこなかったこともあり、精神的にお辛い状況が続いたことによるものが大きいと私は思っています。
皇女様は、自分のことに対して今お辛い状況にあるとか、多くを語ることをしませんし、私達が聞いても大丈夫だと言うばかりですが、この間も過労で倒れてしまって……。
夜も眠れない状況があったり、一人でその苦しみに耐えているのだと思います」
「あぁ、過労で倒れてしまったことがあったのは、アイツから聞いていたが。
夜も眠れない状況があったりするのか……?」
アリスからの説明で、その前後でバタバタと忙しく慣れない行事が続いたから過労で倒れたとは聞いていたが……。
アイツが夜も眠れない状況にあったとは一切知らなかった。
心配になってそう声に出し、目の前の医者に問いかければ
「えぇ、皇女様は夢見が悪かったりして目が覚めてしまうことが、たまにあると言っていましたが、皇女様の言葉は基本的に私達に心配をかけないよう自分の状態をかなり低く見積もって伝えてきているものだと、私は認識していますので……。
恐らく頻繁では無いにせよ、皇女様は夜、辛く苦しい思いをされているのだと予想しています。
そのっ、ローラに聞いた所、皇女様は馬車でのあの事件以前はそのような事がなかったそうなので、もしかしたらあの事件のことを思いだされていたりするのではないかと」
『あくまで、私の予想でしかありませんが……』
と、註釈を付けながら此方に向かってそう言ってくる医者の。
【夢見が悪かったりして目が覚める】
という言葉だけでは、他にどのような症状があるのか予測もつかないが。
そういう状況にあるのなら、悪夢のような物を見て魘されて目が覚めるのだろうか。
【あの事件のことを思い出して……?】
それは、確かにアイツにとっては恐い経験だったろう。
その状況を見てもいない俺は想像することしか出来ないが……。
あの事件のことを、今も思い出しては、苦しい思いをしているのは理解することが出来る。
そして、普段の様子を思い出して、アリスが周囲に心配をかけないようにと、その事を隠そうとするのも、何となくだが想像がついた。
「そうか。
……出来る範囲でいいが、アイツのことに関してもっと気にかけてやってくれ。
俺たちには言いにくくても、医者であるお前には言えることもあるかもしれないし。
アリスが少しでも穏やかに眠れるように手助けしてやってくれると有り難い」
俺も含めて、アリスのことに関してはもっと気にかけてやらなければばらないだろう。
口に出して、そう伝えれば。
俺のその発言に驚いたように目を丸くする医者の姿が見えた。
「……どうした? 何か言いたいことでもあるのか?」
「いえ。……ウィリアム殿下がアリス様の味方でいてくれることはとても心強いことです。
既に皇女様にはよく眠れるようなハーブティーなどを寝る前に持ってきて貰うようローラにお願いしてはいますが。
これからも皇女様の体調に関しては従者である彼らとも連携を取りながら、少しでもその助けになれるよう尽力していくつもりです」
そうして、俺の言葉に本当に穏やかな雰囲気で笑うその医者を見て。
【成る程、さっきまでの柔和な笑みはかなり取り繕った物だったのだな】
ということが俺にも理解出来た。
本当に信用出来るまでは、例え誰であろうと、取り繕った笑みで対応するその姿に。
俺は、かなり親しい、身近で常に“にこにこ”と誰に対しても胡散臭い笑顔を向けている銀髪野郎の存在を思い出して、この男もそのタイプか、と小さく溜息を溢した。
幼なじみという間柄、一緒にいることはかなり多いが、別に常に一緒にいなければいけない程にベタベタとした間柄でもない。
だが、最近のアイツの行動は本当に突拍子がなさ過ぎて目に余る。
【アリスと婚約するメリットなど、本当に微々たるもので、その恩恵などエヴァンズ家にもアイツにもない筈だ】
今まで、どんな風に俺が生きてきて、どんな風に過ごしてきたのか知っているくせに。
アリスを守るために婚約するといえば、確かに聞こえはいいし。
エヴァンズ家がアリスの後ろ盾になるのだとしたら、アリスにとっては心強い存在になることは間違いないだろう。
【それでも、どうしてもルーカスがアリスの婚約者になるということには納得が出来ない】
以前までのアリスならいざ知らず、今のアリスならばそれが最善だということを認識してしまっているし……。
このままいくとアリスは、ルーカスのことを受け入れてしまうだろう。
その未来が見えてしまうから、どうしても嫌だという気持ちが先に立つ。
家族としてちゃんと過ごしてやることもあまり出来ていないから、妹のことを思って、と言えばその通りではあるが……。
俺は今、自分自身が感じている不満が……。
ずっと、誰にも言えず幼い頃から封じ込めてきた。
赤を持っていた者としての共通点として、“俺の気持ちをアリスなら分かってくれるかもしれない”という、淡い期待を持ち続けてきたことによる、子供みたいな独占欲のような物なのだということを正しく認識していた。
ずっと、俺の隣にいて俺のことを見てきたんだ。
――ルーカスがその辺りのことを認識していない筈がない
【半分しか血が繋がっていないとはいえ、自分の妹に、ましてや10歳の子供に幼なじみとの婚約を阻止したいほど、そういった意味での愛情関連の気持ちを抱いているかと言われたら、そうではないが。
小さい頃からアリスだけが、俺にとって“
本来なら、助けてやらなければならない立場にいるのは俺の方だ。
だが、アリスと一緒に過ごして更に強く意識するようになったが、アイツの傍は居心地が良すぎる。
【……私と、お兄さまは違う、から、……私にはお兄さまの気持ちは分かりません。
でも、赤を持っていることで、謂われの無い言葉を受け続ける辛さは多分、誰よりも分かると思います。
……だから、それを、事前に対処しようとするのは決して悪いことじゃない、と思っ……】
あの日、アリスに言われたその言葉に、心が洗われるみたいだった。
誰よりも辛い思いをしてきた筈なのに、アリスは一度も俺の事を責めたりはしなかった。
それどころか、俺の心配をしてくるその姿に、心の底から俺のことを理解して貰えているようなそんな気持ちになったのはきちんと理解している。
【妹として、大事なことには間違いない】
だから、今まで見てこなかった分、アイツの事をちゃんと守ってやりたいし……。
例え、ルーカスといえども、まだ幼いのに誰かからの愛情面でずっと苦労してきたアリスのことを思うと。
政略結婚に関しては、まだ早いとも思う。
【それに、ルーカスが、本当の意味で人を愛すことのない奴だということを誰よりも俺が一番よく知っている】
アイツは外面の良さから、言い寄ってくる女も多いし。
そういった状況には手慣れているが、誰か一人、
――そこには常に、明確な線引きがある。
良くも悪くもアイツのことを知っている分、アイツは仕事面では確かに活躍出来る人間だし、友人として付き合うのならば何も問題はないが。
【恐らく誰とも心からの深い関係にはなろうとしない筈だ】
仮にアリスと将来結婚しても、表面的にはアリスのことを愛すようなフリをするだろうし。結婚するとなったら、アリス以外の全ての人間との関わりはきちんと断つだろう。
でも、だからといって、本当にアリスのことを幸せに出来るとは到底思えない。
今まで過ごしてきたアリスのことを思うとその隣に立つ人間はアイツのことを本気で愛してくれるような存在がベストな筈だ。
【貴族同士や上に立つ人間ほど、愛のない結婚は沢山あるが、アリスにはそのような結婚をして欲しくないと思うのは、妹を大事にする兄としては正しい感情だろう】
「ウィリアム殿下……?」
不意に、声が聞こえてきて俺は顔を上げた。
そう言えば、まだアリスの担当医であるこの男と話している最中だったな。
ルーカスやアリスのことについて物思いに耽っていた俺は……。
「いや、何でもない。お前との話の途中で悪かったな」
と、声を出す。
「いえ、それで殿下が私に聞きたかったお話は以上でしょうか?」
「あぁ、助かった。
……これからも引き続き、アリスのことに関して宜しく頼む」
俺が目の前の医者に、そう言った瞬間。
「ウィリアム殿下、お久しぶりですなぁ!
……定例会議に顔を出されるとは思っていませんでしたが、此方に来ていたならば、私に声をかけて下さったら良かったのにっ!」
と、少し遠くから、わざわざ此方に向かって声をかけてくる人間がいた。
それを聞いてアリスの担当医である目の前の男が即座に、『では、私はこれで失礼します』と丁寧にお辞儀をして去っていく。
その後ろ姿を追う様にして視線を向けたあと、入れ替わりで、此方に向かって声をかけてきたその男は俺のよく知っている人間だった。
「おや、これは、大変失礼致しました。
お話の最中でしたのに、邪魔をしてしまいましたかな?
さっきの医者は、確か、皇女様の担当医ではありませんでしたか?
あまりにも珍しい組み合わせだったので、驚いてしまいましたが、何かあったのでしょうか?」
かなり年がいった、老年のその医者は過去に母上に頼まれて、俺の瞳を取り除いた医者であり、常日頃から、俺とギゼルだけではなく、母上も世話になっている人間だ。
入れ替わり立ち替わり今日は人とよく話す日になったな、と内心で思いながら……。
俺は普段から親しいその男へと視線を向けた。