スラムの中をセオドアが風を切って走ってくれているのをその腕の中で感じていた私は、セオドアの首に回した自分の両手にきゅっと力をこめた。
私を抱きかかえたままなのに、セオドアのスピードは一向に落ちることはなく。
西日でオレンジ色に染まっている太陽が地面をキラキラと照らしているのを見ながら……。
「……ありがとう、セオドア。
もし、間に合わなさそうでも、全然大丈夫だから、無理しないでね?」
と、声を出す。
私のその言葉を聞いて、セオドアが了承した、と言わんばかりに一度此方に頷いてくれたけれど。
それでも、間に合うものなら何とか間に合わせようと、今、最大限に頑張ってくれているのだろう、と言うことが分かって……。
有り難いなぁ、と内心で思いながら、私は自分の口を閉じた。
……どうして、私達がこんな状況になっているかというと。
貴族のお屋敷で忙しそうにしている騎士の人達を見て。
【このままお兄さまと一緒に、王宮の騎士に事情を聞かれてしまうその前に、ここから脱出しよう】
という意見で、2人の考えが一致したからだった。
お兄さまには別れの挨拶もしないまま立ち去るようなことをしてしまい、申し訳ないことをしてしまったかなとは思ったけれど。
それでも私達の正体がバレてしまうよりは、ずっといい。
このままスラムで暮らしている謎の情報屋のまま、私達の存在自体がお兄さまにとって悪い物ではなさそうな内に、あの場から消えてしまった方がいいだろう、と考えた所までは良かった。
だけど、能力を使用した反動が濃く残っていて、未だ体調が完全に元には戻っていない私を見て。
セオドアが……。
【俺がこのまま姫さんを抱きかかえて、爺さんの所に戻った方が早いし。
俺もふらふらしている姫さんのこと見なくてすむから安心出来る】
って、小声で提案してくれて。
――そして、今に至る。
今は、大体夕方の17時を過ぎた頃だろうか。
そろそろ沈みかけていくであろう太陽が、ある程度の時間を私達に教えてくれていて。
屋敷の地下にいたときに予想していた通り、今日はもうツヴァイのお爺さんに報告するだけで終わってしまうかなと思っていたのだけど。
セオドアが、少しでも間に合う可能性があるならと。
今もこうして、私を抱えたまま走ってくれていて……。
息一つ乱すことなく、速度もずっと一定に保ったまま速いスピードを維持し続けてくれているので、私の目に映る周囲の風景もどんどん切り替わっていく。
そうして、あっという間にツヴァイのお爺さんに初めて会った時の教会が私の目で見ても分かるくらいの距離までくることが出来た。
【ゼックスさんと話しつつ、教会を出て歩いて屋敷近くのお兄さまとの待ち合わせ場所へ行った時の時間が大体30分程度だったと思うんだけど】
話をしながら歩いていたとはいえ、その時とは比べものにならないくらい、時間を短縮できたのは、やっぱりセオドアのお陰だろう。
教会の目の前で、今まで私のことを抱えてくれていたセオドアに降ろして貰えば。
ここに来た時と同じように、その扉の前にゼックスさんが立っていて……。
「おおっ、聞いたぞ! アンタ達、ツヴァイの爺さんからの依頼を、殆ど完璧に近い形で遂行してくれたみたいだなっ?
これ以上ないくらい上々の成果を上げてくれたって、ジジイが大喜びしてたぜ!」
私達の姿を見つけてくれたゼックスさんが、ほんの少し弾んだ口調で此方に向かって笑顔を向けて話しかけてくれた。
「あっ、ありがとうございます」
「あぁ、喜んで貰えたんなら何よりだ。……んで、ちょっと俺たちの都合で時間があまりねぇんだが、爺さんは中にいるか?」
「あぁ、そりゃ、悪かったな。
アンタ達ならいつでも大歓迎だとよ。……ほら、中に入ってくれ」
休ませて貰えた時間が長かったこともあって、能力の反動も大分落ち着き。
普通に歩けるくらいまでは回復できた私が、教会の扉をゼックスさんに開けて貰って、セオドアと一緒に中に入れば、来た時と全く変わらず、教会の奥にツヴァイのお爺さんが座って私達のことを待っててくれた。
【私達が来た時と違う箇所があるとしたら、お爺さんの表情、だろうか……】
もう既に見知った関係だからなのか。
それとも、お爺さんに頼まれていた依頼をきちんとこなすことが出来たからか。
私達の方を見て、満足そうに笑みを溢すのが見えた。
「お前さん達、少し遅かったのう?
……儂の目算では、もう少し早く済むと思っていたのだがな」
「あぁ、ちょっと地下に閉じ込められてた時間があってな。時間のロスに関しては、完全に俺のミスだ」
「ううん。
……まさか補強箇所をわざと緩めて閉じ込めようとしてたなんて、誰も予想出来なかったし、仕方ないよっ」
「ふむ、成る程な。
そのような事があって遅れた訳か……。
だが、そんな不測の事態が起こった中でも、殆ど満点に近い立ち回りで動いてくれたのは、此方としても文句の付けようが無い。
子供たちも第二皇子が全て引き受けてくれたらしいじゃないか。
捕まえられていた子供たちの“行く末”は、儂も頭を悩ませていたことの一つでもあったからな。
国のお墨付きである教会に子供たちが行くとなれば、安心出来る」
「えぇ、そうなんです。
お兄さまが、お父様に聞いてみると言って下さっていたので、子供たちに関してはきっと大丈夫だと思います」
ふわり、と私が声を出せば、今の今まで此方に向かって会話の遣り取りをしていたツヴァイのお爺さんがクッと喉の奥で笑いながら。
どことなく、面白そうな表情を浮かべるのが見えた。
「……儂の予想では十中八九、第二皇子は子供のことを一時的に保護したとしても、スラムに帰すだろうと思っていたのだがな?
いやはや、一体どうして、この短時間で心境の変化が生まれることになったのか。
それよりも、お前さん達、儂のお陰で、仮面をつけておいて本当に良かっただろう?
皇女様は皇子様2人とはあまり仲が宜しくないと聞いていたし、何よりお前さんたち、今回お忍びでスラムに来てたしのう?」
「あぁ、確かにアンタのお陰で正体はバレなかったよ。
だが、それならそうと事前に言ってくれりゃ、それで済んだ話だろう?」
「事前に言っていたら、やりたくないと断られる可能性もあったからな。
あの時点ではお前さんたちに必要のない情報だと判断したまでだ」
そうして、悪戯が成功した子供のような表情を浮かべるお爺さんに、セオドアが。
「まぁ、確かに事前に知ってたら、行きたくねぇって思ってただろうし、必要以上に構えてただろうけど……」
と声を出すのを聞いて、ツヴァイのお爺さんが『そうだろう?』と言わんばかりに口元の笑みを深くするのが見えた。
「あ、あのっ、お爺さん。
……この仮面、もし良かったら記念に、貰ってもいいでしょうか?」
「うん……?
いや、別にそれは好きにしてくれて構わないが、お前さん、こんな仮面をコレクションにするような趣味が……?」
「あ、いえ……。そうじゃなくて。
そのっ、もしかしたら今後も、お忍びでどこかに出かける時とか、変装グッズを使うかもしれないし、あったらいいなぁ、って思ってて」
ツヴァイのお爺さんから問いかけられて、慌てて否定するように首を横に振った私は、今考えたそれっぽい言い訳を、そっと口にする。
【本当は、仮面の裏に私の血がついてしまっているから、返せないだけなんだけど】
口が裂けても本当の事は言えなくて、思わず口に出したその言葉に。
ツヴァイのお爺さんは驚いたような表情を見せたあとで……。
「……お前さん、その仮面をつけていたら逆に目立つと思うぞ?」
と、苦笑しながら答えてくれた。
「……やっぱ、アンタもそう思ってたんじゃねぇかっ!」
そうしてセオドアから呆れたような突っ込みが飛んでくるのを笑顔で交わしながら。
「まぁ、別にどうせ、ソイツは、数ある内のガラクタの一つにすぎぬ物だ。
儂にとっては、その仮面が無くても問題はないからな、気に入ったんなら持っていくといい」
と、言ってくれる。
その言葉に、ありがとうございます、とお礼を口にして、私は遠慮無く、その仮面を貰うことにした。
今の今までつけていた仮面を外して、血のついた部分が誰からも見えないように細心の注意を払いながら両手でぎゅっと握りしめる。
と言っても、多分……。
能力を使ったのが分かってるセオドアには私が仮面を欲しいと言った本当の理由はバレてしまっていると思うけど……。
「それで爺さん、悪いんだが俺等にはもうあんまり時間がない。
18時には迎えが来るようになってるから、使える時間は、ギリギリ最大限引き延ばしても30分ほどだ」
「あぁ、それに関しては問題ない。儂は常にスラム内のどこでも監視できるようなシステムを整えているが、特に出入り口に関しては一番重点的に確認出来るようにしていてな。
お前さんたちがどの場所からスラムに入ってきたのかは、把握している」
「……わっ、凄いですね? ツヴァイのお爺さん、ずっと教会にいるのに、どうしてそんなことっ……?」
「ふむ、それは、企業秘密というものだ」
「このスラムにいる、アンタの子飼い全てが、アンタの目となって情報を集めてるっていうのなら、別に不思議なことじゃねぇさ。
若しくは、アンタの目になるような能力者が傍についているとかな?」
「お前さん……、本当に、
そこは、儂の企業秘密ということにさせておいてくれても良いでは無いか。
全く、夢も欠片もないことを言いおって」
「それで? 俺たちが入ってきた場所が分かるから、問題ないってのはどういう意味だ?」
「オイっ! ちょっとは、儂との会話の遣り取りで、情緒や風情を楽しもうっていう気はお前さんにはないのか! この薄情者めっ!」
唇を尖らせて、怒るような素振りを見せたあとで、ツヴァイのお爺さんが私達の方を見ながら。
「お前さん達の時間に限りがあるというのは、そもそもここに来た時にお前さん達が言っていただろう?
帝国の騎士がぞろぞろと何人もスラムに入ってきて屋敷に向かって行っている時点で儂からの依頼は既に成功したようなものだ。
……その瞬間から、成功報酬として、お前さん達のお目当てを手配して動くことくらいのことは儂にとって
自信満々にそう言ってくれるのを聞いて、そこで初めて、ツヴァイのお爺さんが色々と見据えた上で事前に動いてくれていたことを知る。
私達が時間に限りがあるって、ちょっと話しただけのことをツヴァイのお爺さんは覚えていてくれたのだろう。
「あ、ありがとうございますっ!」
スムーズに事が運べるようなその対応に感謝して……。
【流石、情報屋を営んでいる本職の人だなぁ……】
と、思いながら、ぺこっと、お辞儀をして、お礼を言う私に。
「まぁっ、儂からの依頼を殆ど完璧にこなしてもらったにも関わらず、成功報酬は渡せないなんてことになったら、儂の信用問題に関わるからな。
……そこでだ、お前さんたちの目当てには今朝入ってきた場所の近くに、お前さんたちの身分を“極秘”で明かした上で。
皇女様が会いたいと願っていることを事前に伝えて、そこで待っているように約束を取り付けておいた」
ツヴァイのお爺さんは、これくらいはして当然だと言わんばかりにそう言ったあとで、更に色々と手配してくれていたことを私達にも分かりやすく教えてくれた。
その言葉に、セオドアもほんの少し驚いたように眉を上げたのが見える。
ツヴァイのお爺さんがそこまで、手配して動いてくれていたとは予想もしていなかったのだろう。
私達の時間があまりないかもしれないのを見越して。
わざわざ、私達の“帰り道”に望んでいたその人に待っていて貰うよう伝えて、手配してくれているなんてこと、私も全く考えてすらいなかったから驚いた。
お爺さんのお陰で、少し時間が押してしまったとしても、私達を迎えにやってきてくれる馭者の人をそこまで待たせてしまうこともないだろう。
しかも、私の身分まできちんと伝えてくれているのは本当に有り難かった。
それなら、必要以上に自分の身分を証明するために時間をかける必要もなく。
直ぐに自分のデビュタントでジュエリーが必要だという事から交渉に入ることが出来る。
「本当にありがとうございますっ」
どこまでも有り難いその配慮に、心からのお礼を伝えれば。
「いや、儂の方こそ頭を悩ませていた一件が片付いて、お前さんたちには感謝しているから、これはお互い様だ」
と、声をかけてくれた後で。
「そう言えば、お前さんたち、エプシロンを覚えているか?
今日、お前さん達と派手に喧嘩を繰り出した奴の一人なんだが……」
……突然、問いかけられて。
私は腕に怪我をしてしまったエプシロンのことを思い出しつつ。
今、どうしてその人の名前が出たのか不思議に思って首を傾げながらも、お爺さんのその言葉にこくりと頷いた。
「はい。……あのっ、ちょっと砕けた敬語を喋ってくれる人、ですよね……?」
「あぁ、そうだ。
……それで恐らくお前さんたちと儂の認識は一致している。
実は、丁度手頃な所にアイツが暇そうにしていたから協力を仰いでてな。
このあとお前さん達を目的地まで案内してくれるのは奴の役目になっている。
恐らくもう、教会の前に着いている筈だから、今度はアイツと一緒に行ってくれ」
一瞬、ツヴァイのお爺さんからのその一言に驚きはしたものの。
確かに私達がスラムに来た時も、複雑に入り組んだ路地を何度も曲がった記憶があるから、私達が入ってきた出入り口付近にジュエリーデザイナーが待っていてくれていると言っても、一本路地が違えば相手がどこにいるのか探すのも大変だろう。
スラムで暮らしているエプシロンの方が私達よりも当然、スラム内のことに関しては詳しいだろうから。
【もしかして、ツヴァイのお爺さんに強引に頼まれてしまって、捕まっちゃったのかな……?】
と、思いながら。私はツヴァイのお爺さんからのその有り難い申し出にこくりと頷いた。