「あのまま、帰してしまわれて、宜しかったのですか……?」
ルーカスが、この場から完全に、その姿を消したあと……。
手つかずの紅茶のカップを片付けに来た
ついでに、空になった私のカップにまた、並々と注がれていく紅茶を見ながら、私は口角を吊り上げた。
「……構わぬ。
どんなことがあっても、身の程を
ただ、
アレが、好き好んで『私に仕えている訳ではない』ことくらい、私自身が一番、よく分かっている。
エヴァンズ家は、代々、皇室に忠義を尽くしてきたという貴族の手本のような家柄であり、アレの母も父も『清廉潔白』というほどに気高い精神の持ち主だ。
アレが、そんな父のことも、母のことも尊敬していることは確かだし、本来、私と関わりを持たなかったら、ルーカスは、そんな父の像を追ってエヴァンズという家名を背負い『真っ当に生きていた』ことであろう。
……だが。
「どんなに、私に一矢報いるような素振りを見せようとも、
人間としての未熟さ、不完全な状態で見せたその弱みを、こうして私に握られてしまうくらいには……。
――アレは、人間らしすぎる。
私は再び、ポットから淹れられた、風味のよい真新しい紅茶を飲むため、ティーカップに口をつけて、くつり、と唇を歪めて嗤った。
……人間とは、
「それに、やり方をアレに任せきっていた私も悪いしな。流石に、ウィリアムが皇帝に就くために、小娘と
「ええ、突飛なアイディアを思いつく辺り、あの方らしいとは思いますが……。
それでも、ルーカス様が、皇女様に近づくようになったことで、ウィリアム様とも、必然的に距離が近くなっていることを、テレーゼ様も危惧しておいでなのでは?」
「……っ、多少は致し方あるまいな。
だが、最近の陛下があの小娘を甘やかしているせいで、ウィリアムがアレに近づくようになったのには納得がいかぬ。まぁ、その辺り、ルーカスの力ではどうにもならぬことだろうが」
「では、今の状況に、目を瞑るおつもりで……?」
「……私が、ただ黙って、指をくわえているだけだと思うか?」
酸いも甘いも噛み分けてきながら、皇宮で長年、侍女長として暮らしてきているというのに、その年齢に似合わず、存外にも、可愛いことを言ってくるものだと。
くつくつと、小さく笑みを溢せば、普段からあまり表情が動くことのない私の腹心が少し言いよどんだあとで「いいえ」とそれを否定してくる。
皇族で『赤に近しい色を持つ者』が、ただの恥にしかならぬということを、陛下は何も分かっていない。
その上、あの小娘は、鮮やかな紅色を持っているのだから……。
たとえ、陛下がアレのことを認めようとも、世間の波が、陛下が認めたからアレのことを認めるように強く変化していくことになろうとも、一歩、国外に出れば、アレは我が国の
――身体のどこかに赤を持つということは、そういうことだ。
生まれながらに赤を持っている人間が、
……許されていい、はずがないのだっ。
元々、陛下は、たとえ、誰かに情を持ったとしても、それを公私混同するようなことはしない御方。
そういうものであるとずっと思ってきたし、私もあの方に対する想いのようなものは、一切ない。
(だが、それでも、子のことになると別だ)
金を有する我が子よりも、紅色を持っているアレのことを、陛下が大事にしようとする動きには、到底、納得がいかぬ。
――まぁ、今はそのようなことを言おうとも、詮無きことだが。
私に出来ることは、あの小娘がこれ以上、調子に乗ることのないように、常日頃から、その動向を見張って、働きかけることだけ。
我が子の行く先に、何の障害ももたらさぬよう、細心の注意を払うのみ。
「それより、小娘に送ったあの侍女は一切の音沙汰がないが、このまま、借金に苦しんで喘いでいる自分の実家がどうなろうが、別に構わぬと……?」
私の問いかけに、侍女が呆れたような、ため息を一つ、溢した。
「一度、仕事の報告をするフリを装って、接触がありましたが。皇女様が、いつも自分を気遣ってくれて優しくしてくれるのだとか、そういう、どうでもいい日常の些細な報告ばかり……」
――何の役にも立たないので、今のうちに切った方がよろしいかと……。
無能な人材を切り捨てるように、はっきりと出された侍女からの言葉に唇を歪めて、乾いた笑みを溢した。
私自身も、あの田舎から出てきた新米の侍女については、特に、何の期待もしていなかったし、以前から無能そうだとは思っていたが、どうやら、想像以上に使えない人間だったらしい。
それより……。
『皇女様が、いつも自分を気遣ってくれて優しくしてくれる』と……?
「我が儘ばかりで癇癪を引き起こしては、喚いていたと記憶しているのだが、いつからアレは侍女を気遣えるような、善人になったのだ?」
そのまま、我が儘ばかりの子供でいてくれたなら、どれほど扱いやすくて楽だったかと、視線を侍女に向ければ……。
「……誘拐事件以降、必要以上に、表には出て来られませんが。
それでも、以前よりも、格段に大人しくなられているようですね。ただ、一方で、自分の騎士を決める時には、騎士団で我が儘を押し通したようですが」
と、淡々とした口調でそう返ってきて、私は自分の唇を歪めた。
『紅い眼』をした、あの黒髪の騎士のことか……っ。
私自身も、遠目で一度目にしたことがあるが、本当に忌々しいこと、この上ないものだ。
「全く酔狂なものよな?
そうは、思わぬか?
わざわざ、自ら率先して、
アレは、自分が皇族である自覚さえないらしい」
わざわざ、『紅眼の騎士』を選んで、これ見よがしに自分の騎士にするとは、宮内を、あの騎士が歩いていると思うだけで、虫唾が走る。
「それに、噂では、ノクスの民とは、野蛮な民族なのであろう?」
「ええ。……そのようですね」
――一般的に、ノクスの民というのは、身体能力が高く、他国では規制もされておらず、奴隷としても売り買いされているような人間だ。
(彼らは、皆一様にして、粗野で、乱暴な民族だと聞く……)
それが、奴隷につけるような鎖で縛ったりすることもなく、何の制限もされずに、野放しで、我が国の騎士として、それも、皇族の護衛としての『地位』に就いているだなんてこと、普通ならば、有り得ぬことだ。
あの小娘が何を意図して、そんなことをしてきたのかは、私には全く分からぬし、想像もしたくないが『子供のごっこ遊び』でもしているとしか、到底、思えぬ采配に、皇族の自覚さえも持っていないところをみるに、私自身、苛立ちが隠せなくなってくる。
自分が紅色を持っているからこそ、他人を助けるつもりで、そのようなことをしたのかもしれないが、一々、私の癇に障るようなことをしてくる子供だと、本気で思う。
「そういえば、あの、アルフレッドとかいう茶髪の子供の素性は知れたのか?」
「いえ。まだ……。それも、あの新米の侍女に、皇女の弱みを探ってくるのと同時に、ここ最近になって、その傍にいるようになった人間のプロフィールについても探ってくるようにと命じていたのですが。
一向に報告してこないので」
侍女からの報告に、ふぅ、と、私は小さくため息を溢した。
使えぬであろうと碌に期待もしていなかったが、あの新米の侍女は、そんな簡単なことすら、探ってくることも出来ないのか。
最近、特に、私の思い通りに『事が運ばぬ状況』が、増えてきてしまっているように思う。
――この私が、あの小娘に翻弄されるなど、あってはならぬこと。
そのあってはならぬことが、今まさに、起きている。
それでも、たとえ、どうしようも出来ない状況が舞い込んでこようとも、私自身の力で、いつだって、どうにでもしてみせる。
私は、私が思う道を、ただひたすらに進んでいくだけ。
「……必要ならば私の影を使う。
気紛れかと思えた陛下の寵愛がこれ以上続くようならば、何としてでもあの小娘を野放しにしてはおけぬ」
ウィリアムが生まれてから、決して平坦な
……だが、私が、あの子の持って生まれた
……そうでなければ、ならないのだ。
――絶対に。
「……テレーゼ様」
少し言いよどんだあとで、私を見てきた侍女が何かを言いかけて、その口を閉じた。