屋敷にもどると、どの使用人よりもはやく父親が飛び出してリリーたちを迎えた。
「ああ、リリー! そろそろ日が暮れるのに帰ってこないから、どこに行ったのかと心配していたんだよ」
「ごめんなさい、お父さま」
「ううん、なにもなければいいんだ」
子煩悩の父は、いまにも泣きそうな表情でリリーを抱きしめた。苦しいしはずかしいので放してほしいと思いつつも、うしろめたさから動けない。
そんなリリーのドレスを、ハルモニアが控えめに引っ張った。
「ん、その子は?」
「あ、あの……」
助けを求めてユナをちらりと見るも、彼女はうしろに下がってしまう。「ご自分で説明してください」と冷たい目で睨まれる。
「あの、私、奴隷市場で、この子を買ったんです」
「……買った? リリー、もしかして奴隷市場に行ったのかい」
いつも穏やかな父親も、さすがにリリーが奴隷市場なんて危険な場に赴いたことに驚いたようで、少々語気が強い。
「ええ、申し訳ございません」
「いや、謝らなくていい。なぜそんなことをしたのか、お父さまに教えてくれないかい」
父はわずかに眉を上げて、リリーをうながした。
「……こんな小さな子どもが奴隷になるのかもしれないと思ったら、気づいたら体が動いていたんです。お父さまに相談せずに、ユナを巻き込んで危ないところに行ってしまったことは反省しています。でも、無視して帰るなんてできなかったの」
リリーは父に頭を下げた。
父はそんなリリーを見つめ、厳しい表情を崩さない。
ちょうどそのとき、リリーの帰宅を聞いた母と姉がやってきた。
父と娘の不穏な空気を見た二人にユナが状況を説明すると、母は「まあ」と目を丸くし、姉のルルベルは快活に笑った。
「おもしろい! 超のつくほどお人好しのリリーが、ついに人間を拾ってきたのね!」
ひとしきり笑ったルルベルはそう言うと、ハルモニアに視線を向ける。
「犬、猫、鳥はもう日常茶飯事だから驚かなくなったけれど、さすがに人間は驚いたわ」
幼いころからリリーは、弱った動物を見かけると屋敷に持ち帰って世話をしていた。そのまま屋敷のペットになった小動物もいるし、元気になるまで世話をして野に放った動物もいる。
屋敷に住まうペットの数は、十を超えている。いまだって、母と姉のまわりを大型犬がウロウロと歩き回っている。いっとき、レイモンド公爵家は動物を集めてなにかよからぬことをしているのではないかと、うわさが立ったほどだ。
そのほかにも、困っている人を見かけたら、公爵令嬢という身分を気にせずに声をかけてしまうリリーであった。
『レイモンド公爵家の末娘はいったい何者なんだ』
一貴族の娘としては少々風変わりな行動をするリリーを、人々はそう噂した。父親や姉が周囲にリリーの性格を説明してくれたおかげで誤解は解けたが、今度は別の噂がたった。
『名だたる魔法の使い手を排出しているレイモンド公爵家の末娘は、馬鹿がつくほどのお人好しらしい』
『強力な魔法が使えない落ちこぼれと聞くが、性格だけは一丁前によいらしい』
『いやいや、あの年で婚約者が見つからないくらいだ。たいした容姿じゃないんだろう』
そんな声が、リリーの耳にも容赦なく聞こえた。
いつしか、人々はリリーを「お人好し令嬢」と呼ぶようになった。
城下でユナにこのあだ名のことをトゲトゲしく指摘されて笑って流したリリーだったが、もちろんそのあだ名のことも、人々が自分を見る好奇の目もじゅうぶんに知っていた。
でも、人々に馬鹿にされても、この性格は直しようがなかった。
――だって、見て見ぬふりはしたくないの。
ちなみにリリーは過剰な正義感を持ち合わせているわけでない。貴族だから規範的な行動をしなければ、と義憤にかられているわけでもない。
ただ、気が弱くて、見て見ぬふりができないタチなのだ。
父も母も姉も使用人もそんなリリーを好ましく感じていたが、さすがに人間を拾ってくるとは思わなかったらしく、屋敷内は少々気まずい空気に包まれている。
それもそのはず。この国で奴隷制度は認可されてはいるものの、心の清い貴族たちのほとんどは奴隷売買を好んでいないのだ。
国内で強大な権力を持つレイモンド公爵家の娘が、奴隷を買ったと知れ渡ったら、貴族だけではなく平民の心象もよくないのは火を見るよりも明らかだった。
父は怒ってこそはいないものの、主としてどうすべきなのか困惑しているようで、眉間に皺を寄せて黙り込んでいる。
そんな空気を破ったのは、のんきな母親の声だった。
「あらあらあら、ずいぶんかわいい子どもじゃないの。はじめまして、私はリリーの母です。あなた、お名前は? ちょっとめずらしい髪の色だけれど、どこからいらしたの? あと、ずいぶん華奢なのね。年はいくつ?」
母はおっとりとした口調で矢継ぎ早にハルモニアに質問をする。
長身痩躯でスタイルがよく、いかにも貴族然としたはっきりとした顔立ちの母親は、本人にそんな気がなくても一言しゃべるだけでかなりの凄みがある。
質問攻めにされたハルモニアは、リリーのうしろに隠れたまま、目を見開いて固まっている。
見かねたリリーが後ろ手でハルモニアの頭を撫でると、リリーのドレスをぎゅっと掴んだ。
「お母さま、どうかご無礼をおゆるしくださいませ。この子はハルモニアと言います。いきなり連れてこられて驚いているので、あんまり質問攻めにしないであげてください」
「まあ、ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったのよ。でもずいぶんリリーに懐いているのね」
母は眉を八の字にしてハルモニアに微笑みかけた。ハルモニアはリリーのうしろから顔を覗かせて、ぺこりと頭を下げる。
わけもわからぬまま知らない人間の屋敷に連れてこられたら、誰だって緊張してしまうだろう。
この無力な子を守ってあげなければ。
ハルモニアの震える手を見るたび、リリーの心の底からそういった気持ちが湧き上がってくる。
「お父さま、ハルモニアを屋敷に住まわせたいのですが、だめでしょうか」
黙りこくる父に問いかけると、父は小さく息をついた。
「リリーはその子――ハルモニアくんをどうしたいの?」
どうしたいのか。これは父親がリリーによく問う言葉だった。
リリーが動物を拾ってきたり、なにか突拍子のないことをしでかしたりしたときに、父は頭ごなしに叱らずに、まずは必ずリリーの考えを聞くのだ。
今回も聞かれるだろうと思っていたリリーは、城下からの帰り道の馬車でずっと考えていたことを口にする。
「奴隷商人に確認したのですが、彼の身分は間違いなく奴隷でした。この国で身分を変えるのは難易度が高いですが、むりではないですよね。私は彼をいわゆる奴隷として使役したくて買ったわけではありません。彼には最低限の学を身につけさせたいと思っています。これから彼が生きていくのに、必要なことを教えてあげたいのです。だめでしょうか」
父をまっすぐ見据えてそう口にすると、父は満足げにうなずいた。
「いいよ。彼がこの屋敷に住むことを許可しよう」
「ほんとうですか!」
「うん。じつは、国王陛下に奴隷制度の廃止を奏上していたんだ。かつて戦時中に確立した制度だけれど、いまとなっては時代遅れもはなはだしいからね。ちょうど今日の昼に廃止が認可されたから、今日リリーが行ったような奴隷市場は近いうちにすべて取り壊す予定なんだ。それから、奴隷だった人々の住まいと仕事先が見つかるまで、保護する施設を建設する計画も立てているんだけど……」
父はそこまで言うと、リリーのうしろに隠れるハルモニアに目を向けた。
「心優しいリリーのおかげで先例ができちゃったって、陛下に自慢しちゃおう」
父はそう言ってリリーとハルモニアを抱きしめた。
「私も!」とルルベルがその輪に入り、母は微笑んでそれを見守っていた。