凶兆を感じ取ってふるりと身を震わせた、ファリエの予感は正しかった。
不穏な微笑みのまま、シリルはこう続けたのだ。
「今後も定期的に、この男の有り余った血潮を吸っていただけませんか? きちんと上にも報告を行い、両者合意の末の合法的行為である事は必ず保証及び記録いたしますので」
「むむむっ、無理ですッ! ぜったい、むりです!」
声まで震わせて、ファリエは全力拒否をした。両手と首まで振って拒みながら、無意識に後ろへ下がる。
後ずさる彼女をティーゲルが制止しようとするが、それよりも一歩早く、ぼすんと何かにぶつかった。弾力はあるものの、少し骨ばった何かだ。
不意打ちの障害物に、再度短い悲鳴を上げたファリエが斜め前に飛んで振り向くと、細身の中年男性が立っていた。
ティーゲルの補佐官である、ギデオンだ。朝礼の時間ギリギリ寸前であるが、今出勤してきたようだ。
「あ、すみません!」
彼にぶつかったと気付き、慌ててファリエが謝るも、ギデオンは気難しげに眉をひそめて無言だった。そのまま彼女を睨みつけつつ、ティーゲルの席の隣に設けられた自席に向かう。
どうやら怒らせてしまったらしい、とファリエは静かにしょぼくれた。
引き続き手錠をかけられたままのティーゲルが、二人のやり取りに顔をしかめる。
「ギデオン殿――」
しかし彼が何か小言を口にする前に、シリルが空咳で遮る。
遮られた意図が見えず、ティーゲルはシリルへ非難めいた視線を向けた。気難しい顔に戻ったシリルは、色々ともの言いたげな彼に向かって軽く肩をすくめる。
次いで、椅子に座って引き出しから書類を引っ張り出す、斜め前のギデオンを見据えた。
視線は彼に縫い付けたまま、シリルはファリエに呼びかける。
「しかしですね、ファリエさん。先ほど隊長に聴取したところによりますと、彼の血は美味しかったらしいじゃないですか」
「うぅっ」
痛いところを突かれた。
「貴方からそのような発言があったという彼の証言に、誤りはありますか?」
「……いえ、ないです……」
観念したように胸の前で手を組み、ファリエはうめくように自供を続けた。
「とっても……おいしかったです……」
それはもう、高級果物に匹敵する甘美な血だった。
遅刻ギリギリでやって来たギデオンは、彼らのやり取りが分からず一度訝しげな顔を持ち上げたが、シリルに凝視されていることに気付いて慌てて視線を再度下げる。
その間も彼を微動だにせず見つめ、シリルは続けた。
「つまりは吸血行為によって、貴方にも文字通りの旨みがあるという理解でよろしいですね?」
「はい……でも、わたし、どうしても抵抗が……」
「そうですね。疑似血液に慣れ親しんだ現代の吸血鬼は、生き血を飲む行為に
さすがは裁判所の似合う男。見た目通り切れ者かつ博識で、他種族の生態にも詳しいらしい。
一般の人間でそこまで把握している者は少ないため、ファリエも驚き目をまたたいた。
「はい、その通りです。なので、隊長の事情は分かるのですが、どうか――」
「ではその倫理観への負担を最大限減らせるよう、彼の業務量が落ち着くまでの間、期間限定での吸血を行っていただけませんか?」
まさかの譲歩だ。意外な展開に、ファリエは手を組んだまま小首をかしげた。さらり、と銀の髪が流れ落ちる。
「少しの間……ですか?」
「ええ。正確には、秋祭りが終わるまでの期間となります。この間はデスクワークも、どうしても増えますので」
ということは、約三ヶ月間になる。案外長い、と正直者のファリエの表情が途端に曇った。
だが口八丁のシリルは、更に次の手札を切る。
「しばらくは週に一・二回程度の吸血をお願いしたいところですが、もしも別途、貴方が彼の業務もお手伝いしていただけるのであれば、話は別です。更に回数を減らし、なおかつ短期間の吸血によって、業務効率も回復するかと思われますね」
ファリエの目に、希望の光が輝く。
「ほ、ほんとですか! それぐらいなら、ぜひ!」
おそらく昨日の報告書作成のような手伝いをすればいい、ということだろう。
それならば、定期的に彼へ噛みつくよりもよほど、気持ちも楽でいられる。残業になっても、一向に構わない。残業手当がつくのであれば、むしろ大歓迎である。
「それでは吸血と併せて、隊長の仕事を手伝っていただけると?」
「はい。あ、あの、出来れば血を吸うのは……あの、ほんとに最小限でお願いしたいですが……」
自分から念を押すのにも勇気を要したが、ここだけはどうしても言質を取りたい。指をこねこね、尻すぼみに食い下がる。
ただ、いつの間にか「血を吸う/吸わない」の二択から、「血を沢山吸う/少し吸う」の二択に差し替えられていることまで、人が好くて年若い彼女は、最後まで気付けなかった。
そして人の悪い大人の代表であるシリルは、いけしゃあしゃあと結論へ突き進む。
「かしこまりました。私からも、隊長には必ず言って聞かせて分からせますので」
ティーゲル本人を無視してあっさり同意したシリルは、突っ立ったままの彼を見た。
「というわけですので、隊長。本日から貴方の補佐官は、こちらのファリエさんになります。素直ないい子で、良かったですね」
「え……?」
ティーゲルとファリエが、ほぼ同時に小さな驚きの声を上げる。
「はぁっ!?」
そしてギデオンはペン立てや書類を吹き飛ばしかねない勢いで、椅子から立ち上がった。