ティーゲルは朗々と、昨日までの自分が置かれていた状況ならびに限界ギリギリの精神状態と、そしてファリエの吸血によってどれだけ救われたのかを、熱い口調で語った。
そして語られたファリエはと言うと、目を全開にして唖然。
(うそでしょ。噛まれたのに、この人……病院にも行かなかったの? いきなり血も吸われたのに……?)
豪胆を通り越して蛮勇過ぎる彼の行動に、ファリエは少しどころか、だいぶ引いていた。やっぱりこの上司、頭が馬鹿になっている。
しかし固く手を握られたままなので、非常に落ち着かない。ファリエはつい、自由な方の左手を意味もなく上下させた。
「――そういう経緯があるため、また吸血してくれないか! 出来れば今後も、定期的に!」
「い、嫌です!」
が、ティーゲルからのとんでもない願いには、即座に拒否を示した。二人の大声が、タイル張りのひんやり薄暗い廊下に響き渡る。
ファリエは気恥ずかしさで赤くなった顔も、力いっぱい左右に振った。
そもそも彼女は、人間ならびに人間の料理文化へ深い敬意と愛情を持つ、
人間へ悪意を持つ吸血鬼の移住を認めれば、種族間交流に支障が出かねないためだ。もちろん吸血鬼以外の種族が移住してくる場合にも、多種多様な審査がある。
不幸にも昨日は食料盗難と魔力切れというトラブルが重なったため、意図せず彼を吸血してしまったものの。
本来であれば疑似血液以外――それも人間の生き血を直接摂取するなど、彼女の倫理観が絶叫してしまうような、非常におぞましい行為なのだ。
そんなものを、定期実施してほしいと懇願されても困る。いい顔で詰め寄られると、恋愛未経験な身としては輪をかけて非常に困る。焦燥感で、ファリエは背中にチリチリとした痺れを覚えた。
「あの、隊長……」
「うむ、どうした?」
「ほんとに失礼なこと言っちゃうんですけど、頭はえっと、大丈夫ですか……? その、ひょっとしたら、わたしの中の謎の病原菌とかウイルスのせいで、おかしくなってるかもしれません……」
一応自分に責任の所在を置きつつ、彼に「ちょっと馬鹿になってると思いますよ」という旨を、やんわり伝えてみた。
だが返って来たのは、爽やかが過ぎる笑顔と否定である。
「安心してくれ、むしろ今までの寝不足が解消して、普段より頭が冴えているぐらいだ。だから頼む、今後も俺を吸ってくれ!」
むしろ更に身を乗り出して、距離を詰めて来る。
ひぃっ、とファリエの喉の奥がか細い悲鳴をこぼした。
「よっ、余計にタチが悪いです! むっ、むりです、あれはほんと、事故だったんです!」
裏返った声を上げ、ファリエは思わず自由な手でティーゲルを押した。武官でない彼女の腕力など高が知れているけれど、彼もそれには抵抗せずあっさり一歩引く。同時に、掴んでいた手も解放してくれた。
ファリエはようやく自由になった手を使い、肩にかけていた鞄を大慌てで漁る。
そして引っ張り出したラブリー退職願を、震えつつもティーゲルへ差し出した。差し出しつつ、頭を下げて一気にまくしたてる。
「お願いします、昨日のことは忘れて……いえ、もしくはわたしを怒ってください。殴ってくださっても大丈夫ですから、そのままクビにしてください……も、もちろん逮捕していただいても、ほんとに構いませんので! 大歓迎ですから!」
一睡も出来ないほど逮捕に怯えていたというのに、今はむしろその方が安全だと思えた。
だがティーゲルは、小刻みに震えるファリエが差し出す封筒に書かれた文字を読み、そして彼女の言葉を
「そんなことを言わないでくれ! あんな快感を与えられて、忘れるなんて不可能だ!」
「ひえっ」
熱のこもりまくった魂の叫びに、思わずファリエの全身が飛び跳ねた。
彼の声は、普段でも大きいしよく通る。きっと腹式呼吸を心掛けているのだろう。
そして非常に間が悪いことに、彼の切実な事情を聞いている内に多くの団員が出勤する時間帯へと突入していた。
眠気の残る顔で、いつも通りの日々が訪れると根拠なく思い込んでいた彼らも、不意打ちで彼の絶叫を浴びる羽目となる。
第三部隊のオフィス前でのやり取りだったため、出勤してきた同僚たちがギョッと立ち止まって硬直し、二人を凝視する。
仕方がない。先ほどの彼の発言は経緯を知らないと、完全にセクシャルな成人指定ものである。
その内の一人が、我が身をかき抱きながら
「ファリエちゃんが……隊長とヤッた?」
この呟きがきっかけとなり、他の同僚もざわつき始める。
「でもむしろ……なんか、ファリエちゃんから襲ったっぽい言い方のような?」
「いやいや、体格差あるし。襲われたんなら、隊長も合意だったんじゃ……」
「絶対そうだろ! だってファリエちゃんだぞ!」
「くっ、くそぉ! 隊長、うらやましい!」
自分たちを取り囲む諸先輩に勘違いされた挙句に騒がれ、そして何故か嘆かれ、ファリエは羞恥の限界に達した。
新種のリンゴと見まがうばかりの赤面となり、涙を浮かべる。落涙寸前だ。
ティーゲルも己の失言に気付き、思い切り顔を強張らせている。頬も引きつっていた。
「いや、違うんだ。今のは決してそういった、性的な意味では――」
「それではどのような意図で、あのような
焦る彼の言葉に被せて、淡々とした冷ややかな声が響く。全員の視線が、声の発信源へと向いた。
声の主は黒髪を丁寧に後ろへ撫でつけた、しかめっ面の男性だった。自警団よりも銀行あるいは、裁判所にいる方がしっくり来る面構えである。
この神経質そうな男性こそがティーゲルの片腕であり、なおかつ彼に隊長職を押し付けた諸悪の根源でもあるシリルだった。
そう、団長にも平気で噛みつく