他の同僚も既に部屋を出た後なので、今はファリエ一人だけだ。
木製の簡素な机が並び、壁際に鍵付き棚がいくつかそびえる室内は、いつもより広く感じられた。初夏だというのに、どこかひんやりと寒々しい。椅子に座り直して、そんな周囲をぐるりと見渡す。
今なお続くめまいに脱力すると、腹部からもくう、と情けない音がする。
(めまいが落ち着くまで、ちょっと休んで帰ろう……)
この状態で歩くのは危ないし、理性が緩んで何かやらかしてしまいそうだ。
例えば、その辺のドブネズミや野良猫を襲って、生き血をすすってしまったり……等。
(そんなことしちゃったら、絶対逮捕されちゃう側だし、猫ちゃんがとってもかわいそう)
加えて謎の病気も貰ってしまいそうである。とんだ恥の上重ねだ。
吸血鬼ならびに良識ある社会人としての尊厳を守るためにも、空腹が限界を超えて、何も感じなくなるまでじっとした方がいいかもしれない。
そう考えてうん、とうなずいた彼女だったが。吸血鬼特有の、先端の尖った耳が思いがけない室内の物音を拾った。床のタイルを革製のブーツが踏み歩く、コツコツと硬質な足音だ。
誰もいないと思っていたのに、と油断しきっていたファリエが半ば慌てて音のする方――奥の執務室へ顔を向けると、同時にそこの扉が開く。
肩まで伸びた赤い長髪を束ねた長身の男性が、ファリエ以上に疲れた顔で出て来た。広い背中も力なく、丸まっている。目はぼんやり、前方の白い壁を見つめていた。
なんとも物悲しげな風情が漂っているものの、密室に思いがけず二人きりという状況において、声をかけぬわけにはいかない。なにせ彼は、自分の直属の上司なのだ。
「あの、ティーゲルさ――隊長……大丈夫ですか?」
しかし咄嗟のことだったため、二ヶ月前までと同じように名前で呼びかけてしまい、慌てて現在の役職名を付けた。
うなだれてため息をついていた彼が、驚いた様子で顔を跳ね上げる。
「ファリエ嬢、まだ残っていたのか?」
ファリエの所属する、自警団の第三部隊の新米隊長であるティーゲルは、自分も居残っておきながら猫目を大きく見開いていた。
業務内容がハードな分、自警団ではよほどの事情がない限り定時退社が推奨されている。
彼の驚きようも、むべなるかな。
「はい、疲れたので少し休んでから帰ろうかと。隊長は……今日は残業でしょうか?」
手荷物が紙切れ一枚のみであるし、加えて全身からうんざり感を放出している気がした。はたまた投げやりな空気をまとっている、と表現すべきか。
いずれにせよ、これから退勤するようにはちょっと見えなかったのだ。
「ああ、事務作業が残って――というか残っていたことが、ついさっき発覚したんだ」
いつもは快活な笑みを浮かべているティーゲルだが、今はどうにも覇気がない。
「……さっき発覚、ですか?」
また言っている意味も、よく分からなかった。
ファリエが首をかしげると、ティーゲルは彼女の近くにある空のゴミ箱をひっくり返して、そこに腰を下ろした。そして左手に持っていた、唯一の所持品である謎の用紙を差し出す。
「帰り際に、この書類が見つかったんだ」
「わたしが読んでも、いいんですか?」
「うむ。退勤までの休憩がてら、少しだけ付き合ってくれるとありがたい」
こくこくとうなずき、用紙に目を通した。
書類の発行日は、およそ一か月前。発行元は、自警団の総務部だ。
内容は、直近三か月間にこの第三部隊が担当した事案についての、再調査依頼であった。
黙読するファリエの視線を追って、ティーゲルが補足する。
「月に一度報告書は上げているんだが、それに補足という形で、追加報告も必要になったらしい。近々、秋祭りがあるだろう?」
「ええ」
たしか約三ヶ月後にあったか、とぼんやり思い出して首肯。
「その警備計画にも関わるから、早く作って提出しろ、とせっつかれているんだ」
「ちなみに、期日は……」
ティーゲルが無言で、書類の末尾を指さす。節くれだった大きな手だ。
期日は、明日の午前十時だった。
他人事とはいえ、ファリエはヒュッと喉奥を鳴らして慄く。
「このことに、さっき気付いたんですか……?」
「うむ。もはや絶望しかないな!」
やけっぱち気味に、ティーゲルが天井を仰いで笑う。癖の強い赤毛もボサボサで、よくよく見れば目の下のクマも濃い。
自暴自棄がよく似合う、トータルコーディネートでの荒れ模様だ。元が凛々しい顔立ちな分、普段との落差が酷かった。
「その、伝達ミスということで、期日を伸ばしてもらえないんでしょうか?」
おずおずと救済措置を提案するも、力なく首が振られる。
「一応掛け合ってみたのだが、けんもほろろでな。『部下の皆さんの、次の賞与にも関わって来るから、これ以上は待てない』ということらしい」
真っ青になったファリエが、ごくりとつばを飲み込む。
「とても、重要な書類なんですね……それはもう、本当に」
前言撤回。他人事どころか、恐ろしく我が事だった。
しばし考えて、ファリエはうんとうなずいた。
そして書類は机に置き、真っ白な両手を強く握って、膝の上に乗せる。
そして疲れ切ったティーゲルへ、提案をした。
「あの、隊長……わたしでよければ、追加の報告書作り、お手伝いしましょうか?」
「え?」
彼女を見上げたティーゲルが、殆ど空気のような、かすかな声で呟いた。
束の間ぽかんとした彼だったが、次いで申し訳なさそうに緩く笑う。
「いや、気を遣わせてしまってすまない。俺は愚痴を聞いてもらっただけで十分だから、君はもう帰りなさい。疲れているんだろう?」
言いつつ、彼の視線は中庭に面した大きな窓へ。
日光を天敵とする吸血鬼のファリエが入団するにあたって、窓ガラスには
薄い灰色のセロファン越しに見える空は日が傾き、夕暮れを迎えつつある。ファリエもつられて、窓を見る。そしてふにゃりと微笑んだ。
「わたし、元々本の虫だったので、数字や文章をまとめるのは得意なんです」
「しかし……」
「それに二人でやった方が、絶対早く終わりますよね。隊長こそ、お疲れでしょう?」
やんわり正論を突き付けられ、ティーゲルがぐ、と下唇を噛む。気まずそうに視線も下がった。
デスクワークの類が、この上司はとにかく苦手なのだ。
彼も元々二ヶ月前までは、現場で大活躍している平団員だった。だが前隊長の突然の早期退職により、隊長職を押し付けられたという経緯がある。それは下っ端のファリエですら知っている、なんとも
また彼付きの補佐官とも、あまり良好な関係を築けていないらしい。
そんな日々の事情を知っているからこそ、この夕暮れ時のオフィスで背中を丸める姿に同情してしまったのだ。
ティーゲルに伝えた通り、幸いファリエは頭脳労働に抵抗はない。むしろ頭でっかち故に、どうにか人間社会での職も手に入れられたようなものだ。
また何か手仕事をしていた方が、この空腹もごまかせるかもしれない。ごまかせずとも、気晴らしにはなるだろう。
そんな裏事情は伝えず、じっとティーゲルを待つ。
珍しく険しい顔で考え込んだ彼は、ややあって肩を落とし、深々とため息。つむじが丸見えだ。
「ファリエ嬢。お疲れのところ、大変……本当に大変申し訳ないのだが……」
「はいっ」
つい、ファリエの声が弾む。
「君もおそらくご存知の通り、俺は頭がよくないので、事務作業が苦手だ。君の優しさに甘えまくっても、いいだろうか?」
「ええ、甘えてください」
笑ってこくこく了承すると、ティーゲルが顔を跳ね上げた。
「ありがとう! 実はさっきから三ヶ月分の報告書を見ては、猛烈な吐き気に襲われていたんだ!」
ずいと身を乗り出し、抱き着きかねない勢いで歓喜する様子が子供のようで、ファリエは脱力した。
「そこまで悩んでいたなら、素直に頼ってください……」
「もはや報告書を燃やして、
言い訳もまるで子供であるが、それを案外冷静に分析しているところは、腐っても管理職ということか。
「焚き火にされちゃう前に、隊長にお声がけしてよかったです。それじゃあ作業、始めちゃいましょうか」
再度笑ってしまったファリエは立ち上がり、ティーゲルの先導で執務室へと向かった。