家に帰ってすぐにお父さんから体温計を渡され、熱を測ると37.2。いつもの平熱とくらべると、微熱くらいだ。お父さんに促されるままにお風呂に入った後、熱冷ましの薬を飲んで、クーラーの効いたリビングで単語帳をめくる。
気づけば1時を過ぎていて、そろそろ寝ようかと思っていると、ガチャっと玄関の鍵が開く音がした。どうやらお母さんが仕事から帰ってきたらしい。
洗面所で手を洗う音がして、しばらくしてからリビングの扉が開いた。
「おかえり」
「ただいま。まだ起きてたの?勉強?」
「うん」
「そういえば、体調は大丈夫なの?熱は?」
お母さんが向かい側のソファーに座って私のことを心配そうに見る。こうやってお母さんと2人でちゃんと喋るのはいつぶりだっけ。いつも忙しいお母さんは、私の生活リズムとは全く違っているから、なかなかこういう機会はない。
「微熱だったから大丈夫」
「そうなの。よかったわ。そういえば侑希、大学はどうすらの?」
「うーん、まだ迷ってる。まだなりたいものとかもないし…。将来のこと考えたら、できるだけ良いところに行きたいな、とは思ってる」
「うん、そうね。お父さんはなんて?」
「したいようにすればいいって」
「お父さんもお母さんも、なかなか侑希達の面倒見れなくてごめんね。ご飯は食べた?」
「食欲湧かなくて」
「あら、それは良くないわ。お母さんと一緒に、カップラーメンでも食べる?」
ニヤッと悪い顔をして、小声でそう囁いたお母さん。基本的にご飯は家政婦さんが作ってくれるから、冷蔵庫には今日のご飯が2人分残ってるはずだ。まぁそれは、明日食べれば良いか。私はお母さんの提案がひどく魅力的に聞こえて、素直に頷いた。
2人であまり音を立てないようにキッチンへ向かう。別に誰かに怒られるというわけではないのだが、なんとなくこんな時間にカップラーメンを食べるというのは、後ろめたさがある。
私がキッチンの椅子に座ると、お母さんは電気ケトルにたっぷり2人分の水を注いで、そのままセットした。そして、少し背伸びして上の棚からカップラーメンを2人分取り出した。
シーフードと普通のやつ。お母さんはシーフードの方を渡してくれた。もう随分とこういうものは食べていないけど、自分の好みを覚えてくれていたお母さんに、じんわりと胸があったかくなる。
2人でパッケージを破って、蓋を半分開ける。すこしして、カチャっと音がした。お湯が沸いたらしい。お母さんが2人分お湯を注いでくれて、私は2つ分の蓋をシールで留めた。
「結婚する前はこういうの結構食べてたんだけど、結婚してからはめっきり減ったわ」
スマホで3分のタイマーをセットして、お母さんがポツッとそうつぶやいた。
「私もあんまり食べたことない」
「そうでしょ。でも、たまにどうしようもなく食べたくなるのよね。付き合ってくれてありがと、侑希」
「どういたしまして」
「お父さんは最近忙しそう?」
「うーん。いつも通りって感じ。たまに帰りが遅い時もあるけど。今日は早く帰ってたから、塾に迎えきてもらったよ」
「あら、そうだったの。よかったわ」
「お母さんって、お父さんとあんまり話さないの?」
「あなた達のことは話すわ。お兄ちゃんの部活のこととか、あなたの体調のこととか」
「それ以外は?」
「自分たちのことはほとんど話さないわね。仕事の内容も違うし、家のことは家政婦さんに任せっきりだし」
ピピッと鳴ったタイマー。お母さんが画面をタップすると、音が消えた。
「いただきます」
「いただきます」
2人で手を合わせて、蓋を開いた。懐かしい匂いがする。いかにも体に悪そうで、でも最高に美味しそうな匂い。なかったはずの食欲が一気に湧いてきて、私はずずっと麺を啜った。
「ん、うまっ」
「うまいね」
思わず漏れた声。あまりの美味さに目を見開いて前を向くと、お母さんも同じ顔をしていて、私たちは顔を見合わせて笑った。
あっという間に食べ終わって、お腹をさする。昼も夜も何も食べてない私のお腹には、少し刺激が強かったかもしれない。
「美味しかったわね」
「うん。美味しかった」
たまには1日くらい、こんな夜があっても良いだろう。久しぶりにお母さんと話せたし、体調も少しだけ良くなった気がした。
「お母さん、お風呂に入ってくるわ。今日は遅いから、もう寝なさいね」
「うん」
洗面所で歯を磨いて自分の部屋にあがると、ベッドに横になった。スマホを一階に置き忘れていたことに気がついたが、どうせ明日は休日なんだからアラームはいらないだろうと思い、そのまま目をつぶった。お腹いっぱいだからすぐに眠気が襲ってきて、私はそれに抗うことなく意識を手放した。
カーテンからこぼれる太陽が眩しくて、私は目を覚ました。体のだるさは治るどころか悪化していて、体を起こすと頭に鈍痛がはしった。
壁にかけられた時計を確認すると、時刻は11:30。
手すりにつかまりながら、ゆっくりと階段を降りていく。今日も家の中には誰もいない。洗面所に行き、顔を洗って鏡を見ると、明らかに体調の悪そうな自分の顔が目に入った。
キッチンに行くと、朝来てくれたと思われる、家政婦さんが作ってくれていたご飯が、私の分だけ机の上に置かれてした。すごく美味しそうだったけど、だるい体じゃ食べる気にならなくて、私は冷蔵庫からお茶だけを取り出して、コップに注いだ。
ソファーに座って、体温計を脇に差し込んだ。しばらく目をつぶっていると、ピピっと音がしたので、脇から取り出す。液晶には38.6の表示。思わず、はぁっとため息が出た。
多分、風邪か、熱中症だろう。食欲がないと言っても、おかゆくらい食べた方がいいとは思うが、作る気になんてなれない。
熱があると分かった途端に、ずっしり体が重くなって、頭痛もひどくなってきた。昨日飲んだ熱冷ましの薬を飲んで、ソファーに横になる。
自分の体が熱くなっているからか、クーラーが寒く感じられて、私はブランケットを被った。
少し寝ようとしたところで、凛のことを思い出した。あれから既読はついたんだろうか。重い体を引きずるように廊下まで歩いて、昨日帰ってきてそのまま放っておいたバッグから、スマホを取り出して、LINEを確認する。
[今日は配信ないから。昼くらいに、侑希の家行けばいい?」
朝の8時くらいに、そんなLINEが来ていた。この調子じゃ、今日は会えそうにない。悪いけど、また今度にしてもらおう。私はスマホを持って、リビングに戻った。
[ごめん、今日はなしで]
そう打ったあたりで、ぐわんと体が傾いて私はソファーに倒れ込んだ。体が思うように動いてくれず、ふぅっふうっと荒い息を吐き出す。どうやら、思った以上に体調が悪いらしい。手に持ったスマホを握る力が抜けていき、ストンと手から滑り落ちた。私は目眩が治るまで、目をつぶっていることにした。
ピーンポーン。
インターホンの音で目が覚めた。今は動けそうにないから、勘弁して欲しい。少し無視していたら帰るだろうと思い、私は目をつぶる。
ピンポーン、ピンポーン、
何度も鳴らされるインターホン。宅急便だろうか。あんまりしつこく鳴るので、私は無理やり体を起こして玄関へ向かった。フラフラしながら扉を開ける。
体がうまく支えられず、開いたドアと一緒に前へ倒れ込んでしまう。そんな私を、玄関先にいた誰かが抱きとめた。
「侑希?!」
この声は、凛だ。あぁそういえば、今日は配信ないって言ってたっけ。急に動いたからか、頭がガンガンと割れるように痛む。
「どうしたの?大丈夫?」
「うん…ごめ、」
「大丈夫じゃないな。ごめん、家入るよ」
凛は私の身体を抱き上げた。こんな細い体のどこに、そんな力があるのか分からない。私は凛に抱っこされたまま、自分の部屋へ運ばれていった。