25話 海の絵

「実は昨日行った飲食店にこれとそっくりな絵が飾ってあったんです。サインも叶さんが使ってるのと同じ物で……あれショーマって読むんですね」


「これと同じ物?覚えがないけど。でもショーマは僕の絵を描く時の名前だよ。あーあ、バレちゃった」


叶はふふっと笑いながらスープを口にした。


「でも僕が海の絵を描くのはこれが初めてだから、同じ名前の他人じゃないかな」


「そうですか……」


いや、確かにサインの書き方もこの絵も同じ物だ。


どうなってるんだ?

何かがおかしい。


「一度、一緒に見に行きませんか?そこで食事するついでに叶さんにも見て欲しいです」


「うん、いいよ。今度行こうね」


誤魔化したり嘘をついている様子はまったくない。

けれどどうしても腑に落ちない。



「なに?話があるってその事だったの?」


「あ、いえ、そうじゃないですけど」


けれど今日は混乱しすぎていて、上手く話せそうになかった。


「明日でもいいですか?」


「もちろんいいよ?」


食事を終えた叶は再び絵に向き直った。

俺がいるのも忘れたように一心不乱に絵の具を塗り重ねてゆく。

単調だった白が泡立ち、波になってきた。


「叶さん、あんまり遅くまで描いてると体に悪いですよ」


「大丈夫。なんだか早く描き上げないといけない気がするんだ」


「どうしてですか?」


「分からないけど……」


話ながらも手は止まる事がなく、青一色の下地に様々な色が追加される。それらは各々意思を持ったようにキャンバスの中で踊り、走り、広がっていった。


「じゃあ俺はもう帰りますね」


「うん、あんまり構ってあげられなくてごめんね」


「いえ……」


子供じゃないんだからと思うが、少し寂しいのも事実だ。


「描き上げたらまた遊びに行きましょうね」


「うん、約束ね」


俺は、振り返りもせずそう答える背中をしばらく見ていたが、邪魔になりそうだと気付き、その日は早めに彼の家を辞した。









翌日、湯井沢は日帰り出張だったので、俺は東堂課長を昼ごはんに誘った。


ようやく念願のさわらぎ亭のランチだ。

湯井沢がいないのが残念だけど。


「俺今日はそうめんにします。課長は?」


八月もそろそろ終わりだが、残暑はまだ厳しい。

社外に出ている湯井沢は大丈夫だろうか。


「俺は鴨南蛮にする。……ところでこの間の件は聞いてくれた?」


「この間の件ですか?」


俺は首を傾げる。


「酷いな!ショーマの事だよ」


東堂課長はよほど楽しみにしてたのか泣き真似までしてみせた。


「ああ、聞いたんですけど覚えがないそうです。ショーマはショーマでも別人じゃないか?って言われたんですけど」


「そうなの?あー!残念!」


「でもやっぱり今家にあるのと同じ絵だったし、サインも同じなんですよね……」


「何か理由があってバレると都合が悪いから隠してるのかな?」


「そんな器用な人じゃないのでそれはないと思うんですけど、一点心当たりがあります」


「なに?」


「叶さん、記憶の一部がないんです。だから忘れているのかもしれないと思ってるんですけど」


「病院は?」


「一時期は通ってたみたいなんですけど、思い出すのが怖くなったって言って薬も飲んでないみたいです」


「そっか……」


東堂課長はしばらく考えこんでいたが、仕方ないねと諦めた。


「記憶を取り戻すのが怖くなったという事は思い出しつつあるって事なんだ。叶くんが何を怖がっているのかは分からないけどあまり遠くない未来にすべて思い出せるはずだよ」


「そうですか」


その時はちゃんと側にいてあげようと心に決めた。


「そういえば先週末に川遊びに行ったんですけど、溺れかけた時に少し記憶を取り戻したみたいです。大事なものをレンタル倉庫に預けたって言ってました。でも探すのが怖いってまだ調べてないんですけど」


「相当訳ありの彼氏だな。怖いことに巻き込まれないでくれよ?健斗くん」


「そうは言われましても」


ここまで関わってしまったら、時すでに遅しだ。


「ちゃんと湯井沢にも適宜、報連相怠らないように」


「仕事じゃないんですから」


「でも、何かあった時に一人でも味方は多い方がいいと思うんだよね」



俺はそうですね、と軽い気持ちで返事をしたが、その後、課長の言葉は正しかったと痛感する羽目になるなんて夢にも思わなかった。









湯井沢side



「健斗、今夜飲みにいく?」


「あー今日は叶さんと約束があって」


「そっか、じゃあ仕方ないな。また今度な」


「……うん」


最近健斗の様子がおかしい。

何がおかしいって、やたらと挙動不審だ。

それでも先日、急に避けられ始めた時よりマシなので気にしないようにはしてる。


あの時は本当に、死にたくなるほど苦しかった。

三回もランチを断られたのだ。

そんなことを今まで一度もなかったのに。


一週間ほどして、東堂課長と笹野さんが取りなしてくれてどうにか元には戻ったけど、二度とあんな思いはしたくない。


今日も今日とて、視線を感じて隣を見ると慌てて目を逸らす健斗がいた。


何を見ていたのか謎だが、落ち着きなく色々な物を落としたり壊したりしている。


飲みにでも行って聞き出そうにも、いつも叶さんと約束があると断られてしまうので一向に解決しないのだ。



そんな訳で僕は今日も一人、誰もいない家で寂しくコンビニの弁当を食べる予定だ。



健斗は今頃、叶さんと楽しくごはん食べてるんだろうなあ……



「ひろくん」


「……ひろくんって呼ぶな」


目の前に立ちはたがる物理的に大きな壁、東堂課長。


ほんとよく会うな。

仕事してるのか?


「いいじゃん~暇だろ?飲みに行かない?」


「……いいですけど。高いとこしか行きません」


「はいはい。お兄さんが美味しいとこ連れて行ってあげるよー」


ちっ


ちょっと寂しかったから今日は付き合ってやるか。





「おいしっ」


「だろー?」


東堂お勧めのおでん屋は「おでん」という概念を覆す名店だった。


よく味の染みた大根の上に乗っているのは、オマール海老の味噌をバターで濃厚に和えたソースだ。

トマトのおでんに至っては、酸味をまろやかにする甘めのホワイトソースが絶品でブラックペッパーが全体をピリッと引き締めている。


「ところでどうして僕を誘ったんです?」


「うーん、健斗くんのことで心配事があってさ」



「心配事?」