それは、水面に映る月影に似て 4

 視界をふさぐ最後の丘陵を登りつめた後、そこに展開した惨状を見下ろして、レンジュは堪えるようにぐっと奥歯を噛みしめた。


 くすぶり、黒煙を上げる馬車と散乱した荷物におおいかぶさるようにして倒れた、見知った者たち。血を流し、誰もが絶命している。黒焦げになった者も少なくない。暴行され、切り殺されて、裸のまま無残に転がる端女や世話女も数えきれない。


 この中に、もしも彼女がいたならと、ぞっとする考えが浮かんで、血の気の引いた指をさらに握りこむ。


「なんてこった……」


 追いついたハリが、滝のような汗を流す愛馬をなだめながら横についた。レンジュは乱れた息を整える間も惜しんで馬から降り、中へかけこんで行く。


「こら馬鹿っ」


 この様子だと襲撃があってまだ間がない。どこに敵がひそんでいるとも限らないのに、とハリがあわててあとを追う。案の定、レンジュが抜けようとした荷馬車の陰から銀光が飛び出し、首の高さで横一文字に走った。


「レンジュ!」


 間髪レンジュは身を屈ませ、刃の下ぎりぎりをすり抜ける。剣は後ろ髪を少しと背側の鎖帷子をかすめ、いくつか破片を削ぎ落とした後、がつんと硬い音をたてて馬車の木枠にくいこんだ。

 不意打ちから両断できるとばかり思って相当の力をこめていたようで、見るからに楽には抜けそうにない。

 男は剣を手放した。丸腰で二人の兵士を相手にはできないと、即座に踵を返して逃げに転じる。

 男の背に向かい、レンジュの剣が半円を描いて鞘から抜かれた。


「馬鹿レンジュ! 殺すなよっっ」


 ハリが叫ぶのと同時に、レンジュの一撃が男の腕を切り落とす。


「…っ、ぎゃあああああーっっ!」


 一瞬前までそこにあった利き腕を求めて宙を凝視した男は、遅れて身を裂き走った激痛に地面を転がり回った。鮮血が吹き出して飛び散る。間断なく襲う痛みに頭の中が真っ赤に染まった。泣き叫び、死んだ方がマシだとの考えにいきつくのを見越したように、レンジュが柄頭で男の前歯を叩き折る。


「まだだ」


 男のおびえきった目を見据え、傲然と、レンジュは言い放った。


 もしもこいつが彼女に何かしたのであれば、そんな優しい死に方をさせてなるものか。


「……そうでなくとも、簡単に死なせてなどやるものか……」


 決意するようにつぶやいて立ったレンジュと入れ替わるようにハリが男の脇へ膝をつき、止血をはじめる。


 ハリとて自分の『家』をこんな状態にした輩など、助けてやりたくない。いつもとは逆に、レンジュに先にキレられてしまったので控えているが、ハリもまた、八つ裂きにしても足りないほどの冷たい怒りを内に秘めていた。


 男を助けたのは、情報を引き出すためだ。


「……ったら、……うしてやる……彼女……」


 血塗れた剣を持つ手をだらりとたらし、思いつめた表情でぶっそうな事をぶつぶつつぶやいているレンジュは、ハリから見ても恐ろしい。


 もう二十年近いつきあいだが、ここまでおびえた姿を見たのははじめてだった。


 激しい怒りもあるだろうが、その根底にあるのは恐怖だ。かけがえない者を失ってしまったのではないかとの。


 そのときだ。


「……そこにいるの、レンジュ……?」


 聞こえてきた、おそるおそる確認をとる小さな声に正気を引き戻され、レンジュは半面を覆っていた手をどけた。


 転がった大荷物に両手をつき、身をよろけさせながらもどうにか立ち上がる者の姿が見える。


「――あなた! ハリ!!」


 ひょこり、レンジュの脇から顔を覗かせたハリを見て、女は大きくその名を呼んだ。


「ユイナ!」


 足場の悪さなどものともせず、全力で走ってくるハリに、ユイナは血で真っ赤に染まった両手を広げた。自分を抱きしめようと伸ばされた夫の胸にしがみつき、支えを請うようすがりつく。

 生きていてくれた、との噛みしめるささやきが聞こえた。安堵に胸が大きく上下する。己の一部と言い切れるほど肌になじんだハリの胸に顔を押しつけ、これが夢でないことを実感した瞬間、ユイナは声を上げて泣いた。


「何があった? 無事なのはおまえだけか?」


 わななく肩を抱き寄せ、泣いている間じゅう黙って乱れた髪をなでていたハリが、ようやく泣き止んだユイナに訊いた。


「……まだ何人か……斜面の方で、手当てして……」


  涙はとめたものの、興奮冷めやらないユイナはひくひくとしゃくり上げながら答える。


 何から話せばいいのか、混乱した頭を抱えて数瞬とまどっていたユイナだが、レンジュが視界に入った瞬間、はじけるように叫んだ。


「盗賊よ! いきなり射かけてきたの! それで、あたし……あたし、岩の間に彼女を隠したの。それからかあさんを捜しに行って――」


 それからのことは、ユイナもあま景えていなかった。とにかく母を助けなくてはとそればかり考えて黒煙の中を突っ切り、切りあう男たちを避けながらアネサの姿を捜した。


「かあさん……かあさん、は……」


 死んだ。


 うっと喉をつまらせ、ハリの腕に突っ伏す。

 そのことだけは、まざまざと思い出せる。


 家畜の入った篭を積んだ馬車のところでようやく出会えたアネサは矢を右胸に受けており、車輪にみたれてぜいぜいと息をきらせていた。盗賊の男たちは家畜を運び出すのに夢中でユイナの接近に気付いておらず、ユイナはアネサの脇に手を回してこっそりとその場を離れた。そのときは、まだアネサにも息はあった。軽い傷ではなかったけれど、きっと助かると信じて岩場まで戻ろうとしたユイナに盗賊の一人が目をつけた。強引に彼女の腕をつかみ、引き倒そうとした男に飛びかかり、刺されたのだった。


『今のうちにお逃げ!』


 厚い脂肪のせいで腹にくいこんだまま、引くことも押すこともできなくなった剣を両手で押さえこみ、アネサはそう言って絶命した。


「あたし……逃げたの……かあさんをそのままにして……。

 ハリ、一緒に捜して……かあさん……この辺りにいるはずなの……だから……」

「ああ、わかった。絶対見つけてやる」


 涙をにじませたユイナの額に、こつんと自分の額をあてた。

 ハリの思いやりが伝わってきて、ユイナはほっとして、そしてレンジュを見上げる。


「あたし……ごめんなさい、レンジュ。かあさんと一緒に、ルキシュのいる岩場へ戻るつもりだったの。でも、できなくて……。

 辺り一面火の海で、煙で方角がわからなくなるし、どこもかしこも盗賊だらけで……。

 でも、ルキシュが連れて行かれるのを見たわ。布でぐるぐる巻きにされてたけど、あれは彼女よ、絶対。金の髪がこぼれてたもの。

 男に担がれて、ぴくりとも動かなかったから、きっと薬をかがされるか、当て身か何かされてたんだと思う」


「どこへ? どっちの方角だ」


 ようやく聞きたいことの核心に触れられたことに身をのり出したレンジュを見て、ユイナは彼の様子がおかしいことに初めて気付いた。