No.21 第9話『信じて』-1



逃げる方法を考えて、何度頭の中で試みても、南が無事に生き残れる可能性を見いだせない。

震える小さな肩を抱き寄せたまま、大丈夫だ…と小さく発したは良いが、俺の心音は危険だと物語ってしまっている。


額から一筋、汗が流れ落ちた。

逃げるという選択肢を放棄するしか、方法はないのかもしれないと腹を括った。




第9話『信じて』




ゆっくりと、現状を楽しむように妓夫が俺たちの方へと近づいてくる。

一段一段階段を下りては、どう南を解体するか説明し始めるクズ野郎に、奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばった。

南の両耳に手を当てて、妓夫の声が届かないよう掻き消す大きさで叫び返す。


「取引がしたい!!」


俺の一言にピクッと片眉を上げた妓夫が、階段を下りきった後立ち止まる。

数秒黙ったところを見るに、取引内容によっては受け入れるつもりはあるんだろう。


ここで失敗すれば後はない。

南の命を助けられる唯一の方法。この取引に、全てが懸かっている。


「取引ぃ?」

「……金を用意する」

「あ゛ぁ?」

「こいつらを無傷で生かしてくれたら…1億、用意する。1週間後、金と身柄を交換でどうだ」


俺の取引内容を聞いて、妓夫が眉を寄せる。

これから言われるであろうことを先回りして、低く言い放った。


「俺が1人で逃げだすだけだって言いたいんだろ?あと下流階級のゴミ収集作業員に1億も用意出来るわけねェってところか…」

「……。」

「上流階級から殺しの依頼を受ける。……下流の人間にはよくあることだろ?金が無くて追い込まれた奴が殺し屋に転職することなんざ」

「んな簡単に稼げるかよ。射殺されて終わりだ」

「俺がしくじったら2人とも死ぬだけだ。俺の成功に賭けた方があんたには得だろ?」

「馬鹿かお前。どう考えてもお前だけ逃がしてくれって言ってるようなもんだろ。そいつらの命と引き換えに俺だけは助けてくれーってか?」

「……。」


思った通りの反応を見せる相手に、フッと体の力が抜ける。

ここまで話を聞いてくれるなら、俺の提示した1億という餌はこいつにとって良い条件だったんだろう。


あとはこの疑念さえ晴れれば上手くいく。

取引が成立して、2人の身の安全は保障される。


「俺の身よりも、2人の方が大切だって思ってることを証明出来れば良いんだよな?」


南から身体を離して、数歩前へ足を進める。

ごめんな南…これ以外でお前を助けられる方法は思いつかなかった。


心に傷を負わせることは十分わかっている。

それでも…お前の命を助けられるなら…それでも、かまわない。


「……俺の左腕を置いていく」

「…!!」

「橘さん?!」


左腕を見て、妓夫が目を見開いた後ニヤッと笑みを浮かべる。

俺の言いたいことを理解したのか、鋸を持ち上げて下卑た笑い声を発し始めた。


「ハッ!覚悟見せてくれんのか?そりゃ良い心掛けだなぁ!1回で上手く切り落とせるかは保障しねェぜ?お前に蹴られた所為で意識朦朧としてっからなぁ!指の先から徐々に切り刻んじまいそうだ!」

「……右腕と両足残ればいい。殺しの仕事受けられる範囲でやってくれ」

「た、ち…ばな?え…?それって、どういう…こと、なんだ?」


後ろから聞こえてきたか細い声。

それには反応出来ず、真っすぐ妓夫の目だけを見つめる。


こいつの考えが変わらないうちに、さっさと契約を結んでしまいたい。

その一心でもう1歩前へ踏み出した瞬間、グッと後ろから弱々しい力で引っ張られた。


振り返らなくてもわかる、小さな両手。

震える手のひらに左手首を握られて、前へ進むことを阻まれる。


「ゴホッ、左腕…置いてくって…なに?橘…」

「南……」

「俺ッ…俺の所為?俺が、来たから…?」

「南、落ち着け」


ボタボタと涙を零しながら顔をクシャクシャに歪ませる。

普段ならどんなに辛い状況でも笑顔を見せる南が、初めて、幼い子供のように泣いて取り乱していた。


年相応に泣いた南を見れたのがこんな状況じゃなければ…笑顔で抱きしめてやれたのに。

今そんなことをしてしまえば、おそらくクズ野郎の癇に障って矛先が南に向いてしまう。


せっかく整いそうな取引に水を差しかねない。

断腸の思いで南の両手を剥がし、動かずに口は閉じてろ、と小さく諭した。


南の頭へ左手を置いて、一瞬だけ撫でるように動かす。

左手で触れた最後のものが、南の頭で……俺の心は救われた。


絶対に助けてやると強く思えた。

最後に一瞬でも触れられて、本当によかった。


「金と身柄の交換場所だが…」

「おい待て待て。まずは指何本か切ってから話そうぜ?じゃねェといざって時にお前がヒヨッたらなぁ?ぜーんぶ無駄話になっちまう。だろ?」

「……。」


激痛に耐えながら交渉しろってか…

判断力が鈍るような状況での取引に、舌打ちが出そうになる。


そもそも交渉段階の時点で立場が圧倒的に不利だ。従わざるを得ない。

わかった…と短く返事をして、また1歩前へと足を進める。


今度は右手首を強く掴まれて動作を阻まれた。

手の大きさからも、力強さからも、誰が引っ張ったのかはわかる。


「橘さん…」


珍しくずっと大人しかったシオンが、俺の右手首を痛いほど握ってくる。

俺が一度止まり振り返ったことで、右手首の圧迫からはすぐに解放された。


目が合った状態で、力強く呟かれる。



「お待たせしました」