79:或る風来坊の日記

 クライヴが指し示したのは、小説『或る風来坊の日記』の主人公ジャンが、一夜を過ごした女性へ自分の故郷について語る場面だった。

 恋占いが得意だった魔女の生家、彼女の大きな墓、小さな農村に似つかわしくない立派なホテル――こんな目立つ施設を三つも揃えた農村など、そうそうないだろう。


「アーヴィング村に酷似した村の描写もそうだが、ここも気になるんだ」

 次にクライヴは十ページほど戻ってから、再度本を開いた。

 ヘザーはわざとらしく、彼を見上げて身震いした。

「ってかアンタ、こんな短時間でここまで読んで、ちゃんと覚えてんのかよ。お利口サン怖っ」

「怖いとは失礼な」

 ムッとする彼に茶目っ気たっぷりに笑ってごまかしつつ、ヘザーも再度本へ視線を落とした。

 そのページには、主人公ジャンと父との対話シーンが描かれている。


 実家の応接間で二人が、酒を酌み交わしながら近況を語り合うという、何気ない場面なのだが――

「ジャンの実家の描写が、村長宅にも酷似している。廊下に飾られたタペストリーの絵柄まで、そっくりそのままだ」

 彼の説明を小耳にはさみつつ、ヘザーとスタンリーも読み進め――二人で「おおっ」と小さな歓声を上げる。


 素直に感心したところで、ヘザーは気付いた。

「えっ、じゃあジョンが作者なワケ?」

 たしかにジョンという名前をフランス語風に変換すれば、「ジャン」になる。

 両手で本を開いたまま、クライヴも低くうなった。

「主人公のジャンは、素朴な村人とそりが合わずに故郷を出奔しゅっぽんし、ロンドンで無軌道な生活を送っているようだ。ジョンの半生と重なる部分も、多いのではないだろうか」


 ここまで黙して絵の中から四人を見守っていたウィリアムが、控えめに声を上げた。

「ジョンに小説は、たぶん無理じゃないかなぁ……」

 四人が一斉に振り向くと、ジョンのクソガキ時代すら知っているウィリアムが、指をこねこねと理由を紡ぐ。

「彼は学生時代から、小論文や作文がとにかく苦手だったんだよ。テストでも毎回、追試だったはずなんだ」


 申し訳なさそうに彼のこっぱずかしい秘密を暴露するウィリアムに、ヘザーはゆっくりと深くうなずいた。

「あー、うん。悪ぃけど納得しかねぇわ。マジで意外性ゼロ」

「この小説は内容こそ暴力にまみれているものの、随所に古典からの引用や知性を要する言い回しも多い。お粗末な学力では、まず書けないだろう」

「だな。そもそもあいつは、行きずりの女と寝るような度胸も器量もない。詰まるところ、もてないんだよ」

 クライヴの無慈悲かつ詳細な理由付けに、スタンリーも更なる追撃を行った。


「何もそこまで言わなくても、いいじゃない……」

 言い出しっぺであるウィリアムはしょんぼり顔だが、ティナもおずおずと言い添える。

「ジョン様の文才はよく分かりませんが……それとは関係なく、ジョン様には書けないかなぁ、とは思うんですぅ」

 彼女の指摘に、三人で本を回し読んでいたクライヴが、深い緑の目をまたたいた。


「何故そう思うんだ?」

「えっと……クライヴ様は、女性のお化粧にお詳しいですか?」

 突然過ぎる質問にキョトン顔で、彼は隣に立つヘザーを見る。ヘザーも同じような表情で、彼を見上げた。

 土台が規格外の美少女である彼女は、化粧っ気が薄い。保湿程度しか行っていないほどだ。


 つまりは今この場において、全く役に立たない参考資料である。

 ふむ、とうなずいたクライヴは、いっそ凛々しく断言する。

「さっぱり分からんな」

「ですよねぇ。それでは、女性の下着はいかがです?」


 彼はつい昨日、女性の下着でやらかしたばかりであるため、途端に目が泳いだ。

「しっ……知る訳ないだろうっ」

「――そうですよねぇ」

 挙動不審なクライヴと、彼に呆れた視線を注ぐヘザーを束の間意味ありげに見つめたティナだったが、あえて深く掘り下げずに引き下がった。彼女は活きのいい、優秀なメイドなのだ。


 それに今、突き詰めたいのはクライヴのやましい事情ではなく。

「この小説では、女性のお化粧や下着の描写も、とても細かいんですぅ。奥様のいらっしゃらない独身男性では、きっと書けないと思いますよぅ」

 そもそもジョンの家には、彼の母親すらいない。身近な女性がおばあちゃん使用人だけであろうジョンには、土台書けない要素があるのでは、と彼女は言いたいのだ。


 腰に手を当て、ヘザーが視線を天井へ向けた。

「ってことは、女の人が書いたんじゃねぇの?」

 彼女のこの推察に、クライヴは首をひねる。視線は再度閉じた本の、表紙に注がれている。

「しかし作者はダンという、男性のようだが」


 天井に向けていた視線を戻し、ヘザーは肩をすくめて反論。

「別に男の名前で、女の人が本出しちゃいけねぇワケじゃねぇだろ。そういう法律あんの?」

「恐らくはない、と思うが」

「だったらさ、チンピラのモテ男が主人公のバイオレンス小説だから、女の作者が男のフリしてんのかもよ? その方がウケそうだし」


 商業的な理由を提案され、難色を示していたクライヴがなるほど、と呟いた。

「たしかに、一理あるな。そう言えばメアリー・シェリー女史も、当初は匿名で出版していたか」

 『フランケンシュタイン』の作者の名前を出し、再度手の中の本をにらんで考える。


「ジョンの私生活に詳しい、女性か……」

 彼の呟きに呼応して、皆もしばし考える。

「あ、いた」

 だが、すぐに全員がこう呟いた。

 そんな人物は、一人しか思い浮かばなかったのだ。


 首の後ろに手を当て、クライヴは短く息を吐く。

「彼女が作者であるならば。肥溜め事件の真相も、ある程度は想像がつくな」