76:ある秀才のはなし

 ティモシー・アーチャーは幼い頃から、取り立てて目立つ欠点もない、いわゆる「良い子」であった。

 勉学でも運動でも芸術でも、一番になるほどの才はなかったものの、全ての分野において十番以内の成績を維持した。

 それは村のちっぽけなコミュニティを出て、さる寄宿学校に通いだしても変わらなかった。


 おそらく、この満遍まんべんなくこなせること自体が己の才能なのだろう、と彼は考えていた。

 器用貧乏と揶揄やゆされることもあるが、全てで平均以上の成果を出せるため、褒められることの方が多かった。


 ついでに言えば、ティモシーはむしろ金稼ぎも上手い方であった。

 銀行で若くして支店長に上り詰めたことも、それを証明している。他にも家業である畜産業や、そこで生み出された革製品・食品の販路拡大にも大きく貢献している。


 学業のみならず実業も得意分野に含めるティモシーは、資料館にもずっと熱い視線を注いでいた。

 今だってここは、しがない農村を支えている。

 だが前館長とは異なる才を持つ自分がたずさわれば、きっとさらなる進化を遂げられるはずだ。

 自分にも資料館にも、その可能性がある――


「ティモシーさん、よろしいですか?」

 館長室の扉がノックされ、思考が中断される。

「どうぞ」

 気のない返事で入室を許可すると、唯一の館員である女性が顔を出した。三つ編みの女性だ。

 ティモシーの数少ない苦手分野が、人の顔と名前を覚えることだった。強い印象あるいは利害関係があればどうにか覚えられるのだが、ただの同僚や部下程度では薄らぼんやり覚えるので精一杯である。

 そのためこの女性も、未だに名前が出てこない。


 これは他人や、人付き合いそのものへの興味の薄さが原因なのだろうか。

「どうしたんだい?」

 しかし彼自身の社交性は高いので、今も穏やかな笑顔で当たり障りなく接する。

 こちらを窺うようだった女性も、ホッと安堵したように切り出した。

「昨日来られた、探偵のクライヴさんとヘザーさんがお見えです。今、応接室にお通ししています」

「探偵――ああ、あの」


 この二人はすぐに思い出せた。とはいえ顔だけであるが。

 なにせどちらも目を引く顔立ちなうえ、利益には結びつかないが、下手を打てば不利益をこうむる相手である。

 それに助手らしき少女が、怖気おぞけを覚えるぐらい美しい容姿をしていた。あれだけの衝撃を受ければ、忘れられるはずもない。

 探偵と深い仲でなさそうなら、思わず口説いていたかもしれない。


「いや、それはないかな」

 つい口に出して、己の考えを打ち消す。自分は基本的に、の悪い勝負を行わない主義である。最終的に口説くつもりであっても、まずは必ず外堀の確保から始めるだろう。


 彼の呟きに、扉を開けて待っている女性が首を傾げる。

「ティモシーさん?」

「ううん、何でも。君はお茶を用意してくれるかな」

「はぁ、かしこまりました」

 訝しげなままであったものの、頷いた女性はきびすを返した。


 ティモシーは彼女が向かった厨房とは反対方向にある、応接室へ向かった。

 昨日と同じようにノックをして入室すると、相変わらず立派な体躯たいくに陰気な顔を乗せた探偵と、恐ろしく美しい助手が椅子に座っている。


 しかし助手の容姿に目を奪われがちだが、探偵は所作や話し方といった端々から、上流階級の出であることが伺えた。貴族で――しかも名ばかりではない、実も伴っている家柄出身であろう。

 こちらも別の要因で、軽んじられる要素が見当たらない。


「今日はどうされましたか?」

 内心で身構えつつ穏やかな声と表情で二人に声をかけると、彼らは一瞬目を合わせてから、まず助手が口を開いた。

「館長サンに、ちょっとスタンリーさんの家まで付き合って欲しくてさ」

 スタンリーとはたしか、数ヶ月前に別荘を購入した医師だったか。見た目は完全に犯罪者の類だが、有能な人物であると聞いている。

「どうして、彼のお宅に? 残念ながら僕は、彼とさほど親しくもなくて……」

 面倒ごとは御免だと思いながらも、表情は心底申し訳なさそうにつくろった。


 彼の柔らかな拒絶を聞いた秘書は、美しい小顔を憂い顔に変え、じっとティモシーを上目に見つめる。清らかで切実な眼差しに思わず、視線が釘付けになった。

「実はさ……どうしても館長のアンタに見てもらいたい、魔女の遺品が見つかったんだ」

「遺品が? 今さら?」

 今回の事件とは直接関係のなさそうな理由に、ティモシーは思わず目を丸くする。


 今まで無言だった探偵が、一つ頷き後を継いだ。

「魔女の遺品だが、御三家にも縁深い物である可能性が高い、とスタンリー氏から伺っている」

「僕たちの……先祖に? いえ、ですが、そういったことは家長である父たちに――」

「今回の事件にも、何か関係があるかもしれない。業務中に申し訳ないが、現館長である貴君に少し付き合って頂きたいのだ。構わないだろうか」


 提案のていこそ取っているものの、支配者層特有の命令し慣れた声音だ。

 彼の口調に銀行での大口顧客を無意識に重ね、ティモシーはつい条件反射的に頷いてしまった。己の失態に気付き、内心でつい舌打ちをこぼす。


 だが彼の了解を見た途端、助手の憂い顔が華やいだ。たちまち、そちらに意識を持っていかれる。

「やった、館長サンも来てくれるんだ!」

「え、あ、はい……」

「助かるぜ、ありがとな」

「い、いえ……」

 愛らしくも艶のある笑みに、それなりに女性慣れしてるはずのティモシーもつい、赤面してはにかんだ。


 二人のこの緩急付いた態度こそ、彼から主導権を奪うための作戦であることに、残念ながらティモシーは気付けなかった。

 クライヴの傲慢さとヘザーの無邪気さに振り回された彼は、「魔女オタクな物好きのスタンリーが、オークションで魔女の遺品を入手した」という作り話も押し切られるように信じてしまい、そのまま別荘へと連行される。


 外観も内装も存外質素な別荘内を、メイドらしき女性の案内で進んだ。

 メイドは探偵助手と顔見知りらしく、二人で顔を見合わせて微笑み合っている。なるほど、これが探偵の派遣された理由か、と内心で納得した。


「それではこちらで、少しお待ちくださいませぇ」

 メイドに通されたのは応接室であった。そこで探偵と助手と共に、しばし待たされる。ここも装飾は最小限の、質素な空間である。ただ掃除は行き届いていたので、使用人の質はかなり高いらしい。

 そんな室内において、窓際に置かれたイーゼルが少しばかり不似合であった。慌てて置いたような、収まりの悪さを感じるのだ。

 おまけに飾られているキャンバスは、真っ黒に塗りつぶされていた。客のもてなしには不向きな、前衛過ぎる絵である。


「変わった絵、ですね」

 ついそんなことを呟き、ティモシーは数歩ほど絵に近づく。

 この彼の動きに合わせるように。

 キャンバスの中でひょっこりと、幽鬼のような瘦せこけた男が顔をのぞかせた。


 動く絵を――いや、そこに描かれた男と目が合い、ティモシーは凍り付いた。