74:陰キャ探偵、己のチョンボに気づく

 クライヴが眠りから覚めて最初に知覚したのは、ほのかに鼻先をくすぐる花のような甘い香りだった。次いで自分が抱きしめている、柔らかで温かい感触。

 ぼんやり目を開けると、すぐそばにヘザーのあどけない寝顔があった。この甘い香りは、彼女の匂いのようだ。

 アイボリーのカーテン越しに差し込む朝日が陰影を際立たせ、彼女の寝顔は相変わらず精巧な美術品のようにも見える。


 神がかった美しさを眺めていると、昨夜から今この瞬間も全て幻なのではないか、とふと不安になる。

 クライヴはつい、彼女の細い首筋で脈を取った。色々とお楽しみ過ぎて、ちょっと頭が馬鹿になっているのかもしれない。

 とくとくと、規則正しい鼓動に現実味を感じて彼が密かに安堵していると、不意に綺麗な青紫の瞳が開いた。

 いつも活力みなぎる双眸そうぼうは、どこかぼんやりとこちらを見つめた。


「ヘザー、おはよう」

「……おはよ」

 声も気だるげだ。

「その……体は大丈夫か?」

「んー、まあ、若干腰が重てぇ……あとちょっとお腹ん中が変な感じ。他は割と元気」

 あくびを噛み殺し、相変わらずぼんやりした表情で答えてくれる。しかしご機嫌斜め、というわけではないらしい。


 あまりにも強引かつ稚拙な行為過ぎて呆れられたのだろうか、と不安がよぎっていたため、クライヴは内心で安堵する。

 目をしょぼつかせたヘザーが、少し身じろぎしてクライヴへ更に密着する。そのまま、彼の胸板に頬ずりした。

「もうちょっと寝るから、もっかいギュッてして……」

 ふやけた声も仕草も、大層可愛らしく。クライヴはやっぱり幻覚を見ているのでは、と己の正気を一瞬疑ってしまった。


 しかし幸いなことに、今この瞬間も現実であり。

 そして不幸なことに、現実であるので時間経過という概念もある。

 彼女にこのまま二度寝を堪能たんのうしてほしいところではあるが、規律にのっとった生き方をしてきたクライヴは、流されることなくベッド脇に置いた時計を見た。


 時刻は現在、七時二十分。スタンリーと落ち合うのは九時の予定だ。

 身支度や朝食あるいは移動の時間を考えると、ここでの寝落ちは得策ではない。

「悪いが、あまり時間もない」

「えぇーっ」

 唇を尖らせつつも、ヘザーが薄目を開ける。そしてクライヴが指し示す置時計を見た。


 それでようやく、彼女も観念する。舌打ちまじりではあったが。

「しゃーねぇか。とりあえず……オレ、シャワー浴びて来るわ」

 腰痛と下腹部の違和感のためか、体を起こす挙動がややぎこちない。クライヴが慌てて彼女を支えつつ、昨夜貸したバスローブを羽織らせた。

 改めて触れた体の華奢さに年甲斐もなくどぎまぎしつつ、ヘザーの眠そうな顔を覗き込んだ。

「……腰は大丈夫か?」

「昨日みたいにガイコツの大群相手じゃなきゃ、問題ねぇよ」

 ニヤリと笑うヘザーは、ひょっとしなくても自分より男前であろう。クライヴはほんのりと敗北感すら覚えた。


 とはいえ、次からは無理をさせないようにしよう、とも自省しつつ。ヘザーのバスローブの帯を緩く締めてやった。

「それは何よりだ。向こうから、着替えは取って来よう」

「おお。頼んだぜ」

 にんまりと笑ったヘザーは、両手をベッドについて体を支え直す。次いで伸びをして、クライヴの目尻にそっと唇を落とした。


 不意打ちのキスにクライヴが固まっていると、ヘザーはベッドを降りた。

「今のはお駄賃ってコトで。取っととけよ」

 そう言い残すと右手を軽く上げて、彼女は少しばかり気怠けだるい足取りでシャワールームに消えた。

 どうしよう、恋人の男前度が爆上がりしている――クライヴは敗北感を通り越して、一種羨望すら覚えた。


「……ああいう仕草を、どこで覚えて来るんだろうか」

 そこだけは、ちょっと気になったけれど。ともあれ今は、ヘザーの着替えが必要である。

 この時間帯ならば外の通行人も少ないだろう、とクライヴはズボンだけさっと履いて、自宅隣の事務所に向かった。ヘザーの衣類や身の回り品は、事務所内の彼女の部屋にあるのだ。


(今後のことを考えれば、彼女の生活拠点も自分の家に移すべきだろうか。婚約となれば、兄上にも報告が必要か)

 などと考えつつ鍵を開けたところで、ようやく彼は思い出した。自分の寝室の真裏に、ウィリアムがいたことを。先ほどまでの甘い残り香も吹き飛んで、冷たい汗が背中ににじみ出る。


 知らぬ間に荒くなった呼吸を抑える余裕もなく、彼は恐々と事務所のドアを開けた。

 クライヴは怖かった。ウィリアムと顔を合わせるのが。

 しかし彼は、不快な物・事は先に終わらせたいタイプの人間であるため、悲壮感漂う顔のままウィリアムの元へ向かった。


「あ、クライヴ氏……」

 果たしてウィリアムは、クライヴの存在に気付くや否や、なんとも気まずそうに目を背けた。心なしか、幽霊なのに頬も赤い。

 聞かれていた、色々と――彼の表情から全てを察して、クライヴは膝から崩れ落ちる。


 そしてウィリアムも、自分の真下でダンゴムシのように丸まるクライヴの様子から、彼が全てを察したことに気づいた。

「だ、大丈夫だよ! 誰にも言わないからね、うん」

 ウィリアムの殊更ことさら明るい口調が、なお精神をえぐって来る。

「何の慰めにもならんのだが……その、丸聞こえだったか?」

 クライヴは丸まった体勢のまま、のそりと顔だけ持ち上げた。これだけは、訊かずにはいられなかったのだ。

 ぼんやりと「あいつら、なんかさかってるな」程度に聞こえたのならば、まだ立ち直れる。


 しかし尋ねた途端、ウィリアムの目が露骨に泳いだ。

「え? あ、いや、どうだろう……ぼくもちょっと、分からないけど……でもね」

「……でも、なんだ?」

 怖い。続きを聞くのが怖い。でも聞かないと、もっと怖い。


「ヘザー嬢はたぶん『だめ』や『やだ』を、照れ隠しで言ってたみたいだけど……『無理』は本当に無理だったんだと思うよ? あとさすがに三回以上は――」

「全部筒抜けじゃないか!」

 クライヴは慟哭どうこくした。年甲斐もなく少し――いや、かなりがっついた自覚もあるため、反論すら出来ない。

 だって昨夜の彼女は、照れに照れてめちゃくちゃ可愛かったのだ。


 丸まった背中から絶望を大放出中の彼へ、ウィリアムは苦笑い。

「あまり無茶はしないようにね? まだ二人とも、先は長いんだから」

 既に人生を終了している人間からの忠告は、思いのほか重く響いた。

「……ご忠告、痛み入る」


 今度は上半身ごと起きると、ウィリアムの苦笑いが人懐っこい笑みに変化する。

「クライヴ氏は色恋が絡んで来ると、ちょっとお馬鹿になっちゃうんだね」

「悪かったな」

 違う、と言い切れない自分がちょっと情けない。ついムッとしてしまう。


 ウィリアムにからかわれたのは少ししゃくであったものの、不思議と恐怖心は覚えずじまいであった。