二人の宿泊先としてスタンリーが用意したのは、ベイツ・ホテルという五階建てホテルだった。
映画『サイコ』を
白壁に黒い木枠造りのファンシーな出で立ちに、ヘザーも内心ホッとする。
一方のクライヴは、田舎に似つかわしくない広さに面食らう。
「これだけ敷地面積が広くて、採算が取れるのか?」
現実的過ぎる疑問に、スタンリーが胸を張って頷いた。
「言っただろう、資料館は
「なるほど」
再度ホテルを見上げたクライヴも、そう呟いて得心する。
「ちなみにちょいとコネを使って、スイートルームを押さえておいた。ゆっくりしてくれ」
「はぁッ?」
クライヴが裏返った声で、得意げなスタンリーに迫る。
「普通は二部屋取るだろう!」
「お前さんらは、恋人同士だろう? ならいいじゃないか」
眼帯をしていない目をぱちくりさせ、スタンリーは心底不思議そうだ。随分と進歩的な考えの医師である。
一方の堅物探偵は、恋人という己の
「こっ……いや、しかし、結婚前でこれは、あっ、あまりにもふしだらだ!」
「結婚する気満々なら、別に構わんのでは?」
「順序があるだろう、順序が!」
ヘザーとしては
(オレ置いてけぼりで、結婚決めてんじゃねぇよ)
と、呆れなくもなかったが。いや、それよりも。
どうしても問いたいことがあった彼女は、ついとクライヴのジャケットを引っ張った。
「雨風を
必死の形相でスタンリーに詰め寄っていたクライヴが、途中でヘザーに気付く。
「あのさ、クライヴ……ホントに部屋、別々でいいのか?」
「へぁっ?」
真っ赤になったクライヴの脳裏に一瞬、ピンク色の夢想が沸き起こった。
しかし、自分を見上げるヘザーの表情には色っぽいものも、あるいは悪戯心も見えず。
むしろどこか心配そうであることに気付き、夢見がちな妄想はたちまち消え去った。
「……別々でいいのか、とはどういう意味だ?」
「だって魔女、襲って来るかもしれねぇだろ」
「あ」
口を半開きにして、クライヴが固まる。その発想は
心底呆れた、と言わんばかりにヘザーが鼻を鳴らす。そして細い人差し指で、存外強くクライヴの胸板をつつきながら詰問する。
「あのな。相手は、人も殺してるヤベェ悪霊だぜ? 寝込み襲わねぇって保証はねぇだろ? オレが魔女なら、絶対襲うぜ」
「それは――」
「部屋でボッチん時に、魔女とコンニチハーして大丈夫か? 腰抜かさねぇ?」
十中八九腰を抜かして、生まれたての鹿になるだろうな、とヘザーは予想している。
もちろん当の本人も、その結論に達したようであり。
クライヴは歯を食いしばって、雲のない青々とした空をにらんだ。
(お、むちゃくちゃ悩んでる)
分かりやすく苦悩する彼を、ヘザーとそしてスタンリーが面白がって見守る中。
未知への恐怖心と倫理観が
普段の暗さに輪をかけて、己の不甲斐なさを痛感する立ち姿は、負のオーラを
「……誓って、神と君に誓って
一世一代のうめくような懇願に、あっさりヘザーはうなずく。
「おお、別にいいぜ」
あえて軽い調子で応じたが、それでもクライヴは打ちひしがれている。
自宅の隣にヘザーを住まわせておいて何を今更……と思わなくもないが、彼の中では明確な隔たりがあるのだろう。おそらく。
ただヘザーは、湿っぽいことが大嫌いだ。
それは内なる高田が、祖母から受け継いだ精神でもある。実際祖母の葬儀の際には、出棺時にQUEENの『Don't Stop Me Now』を流して参列者の泣き笑いをかっさらったぐらいなのだ。
もちろん選曲は、生前の祖母たってのリクエストである。
イメージは『ショーン・オブ・ザ・デッド』らしいが、さすがの高田も「テメェの葬式にゾンビ映画を持ち込むなよ」と思わなくもなかった。
そんなほろ甘い、前世の思い出からも分かるように。
彼女も祖母からの隔世遺伝によるお調子者であるため、今も
「アンタがその辺、分別あるって知ってるから心配すんなよ」
「しかし――」
「それに立てねぇほどブルってたら、ソッチも
ヘザーとしては、場を和ませるための小粋な冗談のつもりであったが。
絶世の美少女が繰り出す直球ド下ネタは、場の空気を一気に氷点下まで下げた。
クライヴと、そしてスタンリーまでもが赤面で絶句し、偶然通りかかった他の宿泊客もギョッと目をむいて二度見して来た。
(ヤベェ。完全に内輪の飲み会のノリだった)
この空気には覚えがある。生前参加した合コンで、今回のようにうっかりド下ネタを披露した際と同じものだ。女性陣の視線の冷たさに、急性アルコール中毒で死にたくなったことも、ふと思い出す。
引きつった笑みで内心冷や汗が噴き出ているヘザーに、クライヴが悪魔のような形相で詰め寄る。わざわざ荷物を置いて、肩も揺さぶった。
「そういうジョークは、絶対
「あ、サーセン……」
ここまで本気で怒っているクライヴは、映画の中でしかお目にかかったことがなかった。なまじ顔立ちが
たじろぐヘザーを見据える、クライヴの濃緑色の瞳が細められた。
「……そもそも、誰から仕入れたんだ?」
「えっ?」
「そのような品性下劣な情報を、君は誰から聞いたんだ?」
怒りを押し殺す、うなるような声にヘザーは図らずもビビった。
お馬鹿さんな彼女でも分かる。
ここで「実体験だよ!」などと言おうものなら、あらぬ誤解を招いて火に油を注ぐようなものだと。
それぐらい、今のクライヴはおっかない。コレに目を付けられていた、本編のヘザーに改めて同情する。
「あー……ジェフのおっちゃんの手伝いした時に、小耳に挟んだのかなー……?」
と、ありもしない話をでっち上げ、煙に巻こうとした。
ちなみにジェフとは、クライヴが所有するビルの三階でバーを営んでいる初老の紳士だ。
「ジェフの店で――彼から聞いた、と?」
「いっ、いやいやいや! おっちゃんはお上品だから! 客の誰かが言ってた気がする、かも!」
どこの誰とも知れぬ、架空のセクハラ親父をでっち上げ、自分 ( とついでにジェフ)に降りかかる火の粉を
が。
「バーの客か、そうか」
酷く陰鬱な声でそれだけ言ったクライヴが、ヘザーの肩を放し――代わりに荷物の中から、布で包んだサーベルを取り出した。
嫌な予感しかしない。
「ちょ、ちょっと待て。サーベルで何すんだよ?」
つばを飲み込み恐る恐る尋ねるヘザーへ、クライヴは静かに視線を向けた。
その眼差しからは、全く感情が読めない。これ、絶対駄目なやつだ。
「その男に心当たりがないか、ジェフに訊きに行く」
「やめろ! ってか、ソレ置いてけ! アンタのサーベル、切れ味半端ねぇだろ!」
「ああ、そうだな。ちょうど良いな」
「よくねぇから! いいコトなんざ、一個もねぇから!」
(コイツのヤキモチ、マジで面倒くせぇぇー!)
思わず頭を抱え、胸の内で絶叫した。
なお、この嫉妬がまだまだ序の口であることを、ヘザーはそう遠くない未来に思い知ることとなる。
とはいえ今は
(今度から下ネタは、ウンコとかオナラぐらいにしとこう)
と誓うことと、殺気満点で車へ戻ろうとするクライヴを、スタンリーと共に引き留めることに必死であった。