悪魔というものは、基本的に用心深く警戒心が強い。そう、基本的には。
だからこそ、自分の魂の一部をロイドのネクタイピンに宿していたのだ。悪魔と違って無警戒かつ超鈍感なロイドは、そんな劇物
もっとも、その無警戒さのおかげで、こうしてヘザーの虚を突いて憑依することが出来たのだ。人間の愚かしさも、たまには役に立つ。
本来であれば、精神または肉体を極限まで追い込んだ方が、乗っ取りはたやすい。このように相手の隙を狙っての憑依は、失敗することも多々ある。
しかしのんきで無防備なロイドはともかく、ヘザーですらこうも簡単に乗り移れたのだから、
「ワシの運も、まだまだ尽きていなかった、ということか」
満足げに悪魔は笑んだ。
ロイドやダニエルや、その他今まで乗り捨てて来た様々な人間の姿に次々変化していきながら、最後に本来の
その老爺は耳が尖り、瞳孔は縦に裂け、額から二本の角が生えていた。どう見ても人外である。
老いた悪魔は周囲に広がる、ヘザーの精神世界を見渡した。
青い空が広がる、のどかな住宅街だった。
だが一方で地面は間断なく舗装され、周囲にゴミ一つ見当たらない。空気も澄んでいる。
極めて清潔かつ、近代的な街だ。
おまけに建ち並ぶ家々も、見慣れぬ奇妙な外見をしたものが多い。
五・六十年程前にパリ万国博覧会で見かけた、アジアの何とかという国の邸宅にどことなく似ていた。
あれはたしか、日本と言ったか。
イギリスの田舎町出身の小娘が、どうしてそのような、遠い異国の街並みを知っているのか。
そんな疑問符は芽生えたものの、今までのダニエルの精神世界――屋敷の中しか知らない、狭苦しい上に寒々しい世界とは大違いの、開放的で健康的な空間である。たいへん居心地がいい。
たまらず、悪魔は喝采を上げてはしゃいだ。
「ああーっ、なんと清々しい! これは
両手を上げて、悪魔は大きく伸びをする。
あとはヘザーの精神体を見つけ出し、魔術で同化すれば完璧だ。クライヴも、この体を使えばたやすく
そうなればもう、悪魔を脅かすものなど何もない。
――などと考え、彼がはしゃいで小躍りしていると。
白髪を無造作に伸ばした彼の頭が、不意に後ろから掴まれた。
いや、掴んだままメキメキメキと、恐ろしい力で締め付けられる。
「ぎぃやぁっ!」
たまらず悲鳴を上げた悪魔が、どうにかこうにか体を捻って振り返ると、背後には見上げるような大男が立っていた。
身長二メートル超の、タンクトップを着た短髪のアジア人だ。もちろん筋肉モリモリマッチョマンである。
「え、誰……」
いるのは
強面マッチョはニヤリ、と笑った。思わずひれ伏したくなるような、凄みのある笑みだ。
「ちょうどいいトコロに来てくれたぜ。オレもテメェを、直接ぶちのめしてぇと思ってたんだ」
「いや、だから、ほんと誰……」
「あ。ひょっとして食堂にあった小汚ぇジジイの全裸像って、テメェがモデルなんじゃねぇの? おいおい、どんだけナルシストなんだよ!」
「ですから、ほんとに誰なの! ねぇ、誰なんですかぁ!」
ゲラゲラ笑いだすマッスルガイに、悪魔は甲高い声で重ねて尋ねた。
(シスターの中に悪魔の先住者がいるなんて、聞いてないし……聞いたことないぞ! どうなっているんだ! 何なの、この覇王っぽい男ッ?)
恐怖で混乱する悪魔の頭を軽々と宙に持ち上げて、筋肉マンはにんまり。この笑い方、どこかで見たような――
「何言ってやがんだよ。オレがヘザーに決まってんじゃねぇか」
そんな宣告に束の間、悪魔の脳内が真っ白になった。
「えっ、いや、そんな……うっ、うう……嘘だ、嘘だぁぁー!」
声も全身も大きく震わせて叫んだ悪魔の顔面に、無骨で巨大な握り拳が迫りくる。
「くたばれクソジジイ!」
それが、彼が最後に知覚した光景ならびに音声だった。