37:そもそも恋愛で、我慢を強いるのがおかしいのだ

 心の動揺を鎮めるかのように。せわしなく眼鏡のつるに指を添わせていたシェリーが、「そういえば」と口を開いた。

「旦那様は……浴室でもベッドでも、絶対に指輪を外されないんです」

「指輪ってあの、紫の石の?」

 初対面時に悪目立ちしていた指輪の特徴を上げれば、シェリーは神妙にうなずき返した。

「その指輪です。なんだかそう……その指輪がそれこそ、嫌な雰囲気を漂わせているような気がして、少し、不気味で……」


 指輪――そういえば映画本編でも、ダニエルの手元のショットは多かった。

 だからこそヘザーも、初めて彼と相対した時につい、手元を見てしまったのだ。ほぼ無意識に。

 あのカメラワークにはこういう意図があったのか、と腰に手を当てたまま、ヘザーも生真面目な表情で納得する。


 一方のクライヴは、無言でシェリーの言葉を反芻はんすうさせてから

「あ、君たちは、そういう関係だったのか……」

何かを気遣うような小声でぽつり、と言った。


「申し訳ありません。二年程、夜のお慰みをいたしております」

「ああ、うん……」

 ほんのり頬を染めつつ頭を下げるシェリーを見て、クライヴは生煮えのニンジンを口に放り込まれたかのような、微妙な顔になる。


 義理とはいえ、兄の性生活を知るのはたしかに気まずかろう。

 同じ次男という立ち位置を経験した身として、ヘザーは労うように彼の広い背中を叩いた。

「せめてヤる時は爪切って、引っ掛かりそうな貴金属は外してほしいよな。最低限のマナーだよな」

「何故君が、そんなことまで知っているんだ!」

 兄と秘書がデキちゃってたという事実以上に、傷ついた顔でヘザーを見た。荒げた声も、裏返っている。


「まさか……け、経験があるのかッ?」

「は? ヘザーは処女に決まってんだろ」

 オレは違うけど、と心の中で注釈を付ける。

「その割には、恥じらいが一切ないような気がするのだが……本当に、誰もいなかったのか?」


 生前、高田は彼女や女友達が「男の嫉妬はほんとに見苦しい」と言っていたのを聞き、「いや、嫉妬に男女関係ないだろ」と思っていたのだが。


 自分がされる側になると、たしかに見苦しいな、と痛感した。

 おそらく物理面では男性優位という点が、悪影響を及ぼした末に芽生える「重い」「ウザい」「面倒くさい」「所有物扱いするな」「束縛とか喜ばないから」といった気持ちをひっくるめての、「見苦しい」だったのだろう。


 つい呆れ顔になりつつ、ヘザーはそんな真理に行き着いた。


 ただ彼をなだめないと話が進まない、という事実も把握しているので、先ほどより力を込めて背中をバンバン豪快に叩く。

 祖母宅にあった、接触の悪いブラウン管テレビを叩いて直していたことを、ふと思い出しながらの殴打であった。


「いるわけねぇだろ。女の園で暮らしてたんだから耳年増になるし、色々オープンな性格になんだよ。ほら、嘘つくなって、聖書も言ってんじゃん」

「あ、ああ」

 まだ疑念の残るどんよりジト目だが、一応は納得したらしい。


 よし、と一つうなずいて、ヘザーは再度シェリーに確認する。

「――で、シェリーさんはさ、その指輪がクセェと思ってんだな?」

 そこが悪魔の本体ならば、ヘザーのタックルが無効だったのも納得である。

 彼女の言葉に、シェリーは少しためらいつつも、うなずいた。


「え、ええ……あくまでも、わたくしがそう感じるだけ、なのですが」

「直感ってバカに出来ねぇよ。他にはなんか、気になることあんのかい?」

「他に……」

 頬に手を添えて考え込んだシェリーが、「あっ」ともらした。

「羊の生き血を浴びられたり、屋敷中の十字架を逆さに飾られたり、たまに床から数センチ浮いていらっしゃることも、ございました」


 思った以上に、色々やらかしていた。

 ひょっとして伯爵は、学生向け食堂の店主も兼務しているのか、と邪推するレベルで疑惑が山盛り・メガ盛りだ。大盤振る舞いにも程がある。


 逆さ十字など、典型的な悪魔崇拝のシンボルである。隠す気があるのだろうか、あの病弱野郎は。

「そこまでヤバいのに、よく今まで庇ってたなぁ」

 いっそ彼女の懐の深さに、ヘザーは感心した。


「それ以外は、とてもお優しい方でしたので。お恥ずかしい話ですが、ベッドでのテクニックも、とてもお上手で……」

 クライヴは無表情で耳を塞ぎ、遠くを見ていた。その姿には、同情を禁じ得ない。


 頬を赤らめながらも、どこか悲し気なシェリーの肩を、ヘザーの小さな手が優しく包み込んだ。

「あのな、シェリーさん。『コレ以外は素敵』なヤツってたいがい、『コレがあるからクソ』なんだよ。覚えときな。そんで、自分をもっと大事にしなよ」

 射貫くような鋭い藤色の眼差しと、それに反して親身で温かな声音に、シェリーは呆然とする。


 この「コレ以外は素敵」理論は、高田自身が身をもって経験したものだ。

 料理上手で気遣い屋で優しく美しいが、とんでもない尻軽ビッチな彼女に振り回されていた際、友人たちから言われた言葉だった。「自分をもっと大事にしろ」という激励と共に。


「アンタぐらいイイ女なら絶対、そんな目つぶってやんなきゃいけねぇクソ要素のない、もっとイイ男がほっとかないからさ。オレが保証する」

 じわじわと、シェリーの目が潤み始める。

 ヘザーも表情を和らげ、おどけるように肩をすくめた。

「ってかオレが男なら、このままアンタのこと絶対口説いてるし。伯爵サマよりずっと大事にする自信あるし。ほんと、マジで残念!」


「いや、もう殆ど口説いているようなものだろ」

 静観していたクライヴの、そんな呆れたような茶化すような言葉に、たまらずシェリーが笑った。その拍子にぽろり、と涙が一粒流れ落ちる。