16:何事も土台が肝要である

 その時だった。

 裏庭を取り囲む針葉樹の間から、ぬらりと影が出てきたのは。

 影は、人の顔が生えた黒ヤギだった。しかも大柄で、体高は百四十センチほどか。


 人面ヤギが森を抜け出る際、木々の枝に触れて雪が落ちた。

 この音でティナとヘザーがほぼ同時に、ヤギの方へと顔を向けた。クライヴは割った薪を集めるのに夢中で、背を向けたままである。

 ヤギに気付いたのは、当然と言うべきかヘザーだけだった。


「あら、雪が落ちましたねぇ。風でも吹いたんでしょうか?」

 ティナはヤギの足元だけ見て、小首をかしげている。視線にも動作にも、恐怖や驚きの色はない。

「かもな」

 口元だけで笑って相槌を打ち、ヘザーはじっと人面ヤギを凝視する。


 少しだけ『もののけ姫』のシシ神様っぽくもあるのだが、間違いなく悪霊、あるいは悪魔が作ったよからぬサムシングだろう。

 しかもヤギの体に乗っているのが、脂ぎった肥満の中年オヤジの顔というのがまたキツい――いや、美男美女の顔が搭載されたところで、気味の悪さに変わりはない。


 土台がヤギの時点で、何が乗っていてもヤバめのクリーチャー確定である。

 そういえば劇中においても、体が右半分しかないヤギが屋敷内を闊歩かっぽしており、ヘザーが悲鳴を上げるシーンもあったか。

 悪魔はヤギ好きなのだろうか。沖縄にでも移住すればいいのに。


 もっとも、ヤクザの愛人とうっかり火遊びして、それはそれはキツいお仕置きを受けた友人や、ヤク中の隣人の騒音を注意してめった刺しにされた同僚の、変わり果てた姿を目にした経験がある高田としては、この程度のクリーチャーは雑魚である。

 やや不気味なゆるキャラと大差ない、と言っても過言ではなかろう。


 ヘザーは薪を拾う振りをしつつ、こちらに近づいてくるヤギとの距離を更に縮めた。

 ヤギはゆったりした足取りで歩きながら、にやにやと下卑げびた表情を浮かべている。なんとも腹の立つ顔だ。

 ヤギのいやらしい笑顔に、ヘザーは無表情を返す。


 そして軽やかなバックステップで、ヤギの背後を素早く取り、そのまま首に腕を回し――思い切り締め上げた。

「ニーブラッ!」

 謎の鳴き声を絞りだし、苦悶の表情で人面ヤギは暴れた。

 だが生前はチョークスリーパーが大得意だったヘザーの締めに、容赦も慈悲もない。


 しばらくじたばたした末、ヤギの体から力が抜けた。生き物かも怪しいので、この言い方は不適当かもしれないが、どうやら死んだらしい。


 一方、ヤギが見えていないティナは、ヘザーがうろうろし始めたかと思ったら急に両腕で何かを抱きしめる動作をしたため、そのことに目を丸くする。

「あのぉ……ヘザー様? どうしました?」

「ん? んん、おお、柔軟体操。ほら、久々に肉体労働頑張ったからさ」

 ごまかしつつ、ヤギの死体?を地面に放り投げて腰を回す。

「そうですねぇ。お疲れ様でした」

 ほっこりねぎらってくれるティナに、ヘザーの挙動を疑う様子はなかった。


 ティナより少し離れた位置に、クライヴも立っていた。

 二人の会話が聞こえたのか、彼もヘザーの方を向いており、なぜか顔が真っ青になっていた。

 いや、彼の深緑色の瞳が捉えているのは、ヘザーではなかった。彼女の足元に転がる人面ヤギを、たしかに見ている。


 しばしためらった末、ヘザーは彼に問いかけた。

「ひょっとしてアンタ……コレ、見えてんのか?」

 つん、とブーツのつま先でヤギの尻をつつく。ヘザーの問いかけに一度肩を跳ねさせたクライヴだったが、ややあって小刻みにうなずいた。

 よく見ると全身がかすかに震えており、むしろ彼の方がヤギっぽい。それも生まれたての。


 回らない舌でゆっくり、クライヴはヘザーに問い返す。

「き、君も、これが視えて、るん、だよ、な……?」

「おお。まぁ、シメたぐらいだからな」

 鷹揚おうような返事に、彼は青ざめた顔を更に歪めて、泣き出しそうな表情になった。


 何も視えていないティナだけが、二人のやり取りの意図が分からず、頭に疑問符をいくつも浮かべていた。

「あのぉ……見える、と仰いますのは――」

「ティナ。ほんとに悪いんだけど、クライヴさんと二人だけにしてくれねぇか?」

 彼女の言葉を遮るようにして、ヘザーはじっとティナを見つめながら頼み込む。


 ティナは当然面食らい、困惑した。

「えぇっ? いえ、その、淑女と殿方を二人きりにするのは、ヘザー様のメイドとしてやはり、看過出来ないと申しますかぁ……あ、もちろん、お二人を疑ってるとか、そういうわけではないんですよ? あくまでマナーの問題でしてっ」

「それは分かってる。ティナだって、意地悪言ってんじゃないって。でも、どうしても二人だけで相談したいことがあるんだ。頼むよ」

 言いつつ、頭も下げた。


「えぇっとぉ……」

 彼女が助けを求めるようにクライヴを見るも、血の気の引いた状態の彼も、ヘザーに同意するようにうなずいた。

「すまない、先に戻ってくれ」

「あぅ……」


 何が何やらさっぱりだが、クライヴの様子が尋常でないことは、ティナも薄々察した。

 そしてヘザーの声にも、真剣さがあることも。


 ついでにティナは、出会ってまだ二日目だが、ヘザーのことをとても好きになっている。

 クライヴに関しては初対面時の「男前なのにすっごい暗い、なんか色々もったいない」という印象から、特に改善も改悪もされていないが。ともかく一応、嫌悪感はない。


 加えて、たとえクライヴが相談にかこつけて、ヘザーに不貞を働こうとしても。

 絶対彼女は大人しくしないだろうし、むしろ嬉々として反撃するに違いない。

 短い付き合いだが、そこは強く確信できた。


 だから肩を落としつつ、渋々同意する。

「かしこまりました……お二人を信じて、わたしはお先に戻りますぅ。ですがくれぐれも、遅くならないでくださいね?」

「おう、無理言ってごめんな?」

「いいえ、薪を割っていただいた、せめてものお礼ですので」


 そう言ってティナがほんのり笑う間に、人面ヤギの死体らしきものは真っ黒な炭になって、ボロボロと風化していった。