シャンタルは市庁の仕事を辞め、ボクの家で共に暮らすようになっていた。
元々シャンタルが住んでいたのも市庁職員の為の寮だったので市庁の仕事を辞めたら寮を出ないといけないし、寮を出たシャンタルには帰る場所はない。
シャンタルの生家は既に他人の手に渡っている。
両親も頼れる親戚も、シャンタルにはいなかった。
こうして短くも最後で幸せなシャンタルとの同棲生活が始まった。
ボクとしてはシャンタルと生活できるようになり、嬉しいだけだけどね。
二人とも忙しい仕事を生業としていたので、今まで二人の時間が多く取れることなかったからね。
本当に、そこだけは良かった。
なにせボクはほぼ自宅で仕事をしているのだから。
ほとんどの時間、シャンタルと一緒にいることができる。
これが嬉しくない訳がない。
今まで会いたくても会う時間を作るのだって大変だったんだ。
けど、喜んでもいられない。
シャンタルの右足にも結晶が生え始めて来た。
ヴィトリフィエ病の病巣の転移だ。
それに、腕とは違い、こちらは結晶ができた位置がかなりまずかった。
足の感覚がなくなり、膝にも結晶が生えたこともあり、シャンタルは上手く歩けなくなってしまっていた。
シャンタルが独りで歩くには杖が必要なほどだ。
シャンタルの腿から膝にかけてかなりの大きな結晶が生えてきている。
また関節部に大きな結晶が生えてしまうと流石にその関節は動かせなくなるようだ。
今のシャンタルは、もうまともに歩けない状態となっていた。
ヴィトリフィエ病の恐ろしいところは痛みも何の前触れもなく、体からガラス化した結晶が急に生えて来ることだ。
大きな結晶が深々と生えているのに血さえ出ていない。
本当に不可解な奇病だ。
シャンタルは曲がらなくなった右足を延ばして椅子に深く腰掛けている。
そうして、ボクの仕事を楽しそうに、ニコニコと見ている。
まるで曲げれなくなった足のことなど気にしていない様だ。
いや、流石にそんなことはない。
きっと気にしないように、今は考えないようにしているだけだ。
彼女は強がりだからね。
そんなシャンタルをボクは気になって仕方がない。
彼女は右手も右足も不自由になってしまったのだ。
ボクが世話をしてあげないとならない。
右手の肘の結晶は、今はそれほど大きくなく曲げれないほどではないが、いつまた結晶が大きくなるかわからないのだから。
「喉は乾いてないかい? お茶でも淹れるかい?」
ボクがそう声をかけると、シャンタルはまだ暖かいティーポットを左手で持ち上げて見せる。
「まださっき淹れてもらったの残ってるわよ。そんなことより、しっかりと仕事して?」
シャンタルは笑いながらボクを見てくれる。
そのシャンタルの笑顔にボクも自然と笑みをこぼす。
「でも……」
でも、何かしてやりたい。
シャンタルを見ていると、そう言う気持ちにさせられる。
何か困っていることはないか、何か不自由なことはないか、そう考えてしまう。
仕事が手につくわけがない。
「真面目に作業しているメトレスはカッコいいわよ。それをもっと私に見せてよ」
けど、シャンタルはボクの心を見通すかのように、そう言って笑う。
頬を少しだけ赤く染めて笑いかけて来る。
ボクはそんな彼女がどうしても愛おしくてたまらない。
「わかった、まじめに仕事をする。でも、なるべく早く終わらせるからな」
他ならぬシャンタルの頼みだ。
叶えてやらないと。
出来るだけ願いを叶えてやりたい。
そう思うと、どんなに我慢しても涙が溢れてきてしまう。
「別に私に気を使う必要はないわよ。こうして、メトレスを眺めていられるんだから」
まるで泣くのをこらえるボクを楽しんでみているかのようだ。
けど、ボクにだってシャンタルを眺めている権利はある。
いや、その権利は今はボクにしかない。
ボクだけの権利だ。
「ボクだってキミを眺めていたいんだ。そのために仕事を早く終わらせるんだ」
そうだ。仕事を終わらせる。
そして、シャンタルと……
残り少ない時間、彼女とどう過ごせば良いんだ……
やりたいことがないわけじゃない。
次から次へと浮かんでくる。
けど、本当にそれはやりたいことなのか? そう自問すると分からなくなる。
ボクがそんなことを考えながらも仕事をしていると、
「メトレス、あなた、親方に言って仕事の量を抑えてもらってるんでしょう?」
シャンタルはそんなことを言いだした。
誰から聞いたんだ?
確かに本当のことだが。
「悪いか?」
と、ボクはシャンタルの方を見ずに言った。
シャンタルと目を合わせたら、あの藍色の目を見つめたら、なにもかも見透かされてしまう気がした。
「悪くはないけど…… 私と違ってメトレスには未来があるのよ?」
少し困ったようにシャンタルはそんなどうでも良いことを言った。
ボクの未来?
キミのいない未来に何の価値があるというんだ?
「キミのいない未来だ」
ボクはまたシャンタルと目を合わせずに言った。
今、シャンタルの目を見たら、ボクは何も言えなくなる。
「私は…… あなたの心に居続ける。だから、悲観しないで?」
それは…… そうだろう、ボクにはキミを忘れることなんてできない。
できるわけがない。
ボクはキミの思い出と共に生き長らえなければならない。
キミとそう約束してしまったから。
それはボクにとって生きる為だけの呪いのような物だ。
「シャンタル…… キミはどうしてそう達観しているんだ?」
「一人で色々と苦労して生きて来たからよ」
苦労すれば、ボクもシャンタルのような考え方をできるんだろうか。
ボクとシャンタルの立場が逆だったら、ボクはシャンタルにしがみ付いて離れない自信はある。
まあ、迷惑なだけだろうが。
「そんなキミがどうして……」
そうだ。
ボクの知る限り、シャンタルはボクなんかと比べるまでもなく苦労人で善人だ。
そんな彼女が、なんでこんな目にあわなくちゃいけないんだ?
全身が徐々にガラス化していき、動けなくなり、最後は全身の感覚もなくなり眠るように死んでいく。
死んだ後も全身のガラス化は止まらない。
腐ることなく全身ガラス化して一つの結晶になる。
そんな最後があってたまるか……
「でも、あなたと出会ってからは一人じゃないわよ。今もね? だから、きっと…… 私は幸せなの」
その言葉でボクがシャンタルを見ると、彼女は嬉しそうに笑っていた。
その心から楽しそうな、幸せそうな笑顔にボクは少しだけ救われる。
「そうか…… それはよかったよ」
そう言って、ボクは無理にでも笑って見せる。
上手く笑えているだろうか?
ボクは泣いてないだろうか?
「ああ、でも……」
ふと、シャンタルは何か思いついたように声を発する。
「なんだい?」
「完全に寝たきりになる前に、どこかへデートしに行きましょう? どこがいいかしらね?」
そう言ってとびっきりの笑顔をボクに向けてくれる。
「それは…… いいね。食事もたまには外でしようか。どこか行きたい場所はあるか?」
ボクは多分この時泣いていた。
シャンタルのことを考えると、どうしても涙が流れ出てしまう。
これを止めることなど、ボクにはできそうにない。
「そうね……」
けど、彼女は楽しそうに、人生を謳歌するように、デート場所を考える。
ボクがこれからも、シャンタルが居なくなった後も、生きていくだけの思い出を残すために。