第9話「白線を歩んで」

 廊下を行き交う人達の短くなった袖を見、春という季節の終わりを知った6月上旬。その人の流れに逆らう俺は別に春に戻ろうとしているわけではないけれど、恋しいかと言われたら少しだけ、恋しいかもしれない。ほんとうに、少しだけ。

 柱でできた日陰の上だけを歩くも、長くなった鬱陶しい前髪を覆う額からはうっすらと汗が流れる。

 あの春の優しい暖かさはどこへ行ってしまったのだろう。

 拒んでもいずれやって来る季節を傍に、カーテンの閉められた美術室の扉をゆっくりと開く。そこに求めている季節は無いけれど、清涼ともよく似た冷たさがそこにはあった。


「失礼します」


 誰も居ない美術室に言葉を添えて足を進める。一応俺にだってこの部屋に示す敬意くらいは持ち合わせて居るのだ。

 とりあえず手前の方だけに電気を付けて鞄を下ろし、詰め込んだ筆、絵具、ペインティングナイフ、絵皿を無駄に幅のある机に並べてみた。部屋も借りることができ、それを自由に使うことができるなんて、絵描きにとってここは楽園なのかもしれない。

 あまりにも自分勝手で贅沢な使い方、それをしても心は痛まない。


「まあどうせ、人なんて来ないしな」


 芸術がどうの、美術がどうのと謳っているこの学校には意外にも、『美術部』という部活は存在しない。

 昔はあったのか? 今は廃部になってしまったのか? 聞いた話ではあるが、そもそもそう言った部活は創立当初から存在していなかったようだ。

 言われてみれば確かに、2年の終わりに読まされた先輩たちの合格体験記の中にも、他の部活の話は聞けども美術部という文字は出てきた覚えはない。

 その代わりこの美術室……いや、この部屋と置かれている全てのものは生徒であれば何時でも、誰でも使うことが許されているのはこれもまた、この学校の特色なのかもしれない。

 部という縛りをせず何かを残したい、表現したい。好きなときに自由に表現することこそが芸術だとかなんとか。

 その想いが我ら生徒に通じているかというのは、カーテンも下ろされ机にも少し埃の被る部屋を見れば言わずとも、だろう。

 この学校は『良くも悪くも』先人達の残した『傑作』に触れる機会が多い。そのどれもが誰かしらに何かしらの影響を与えてきただろう。それに触発される人も居れば、一方で自分の実力との差で委縮する人が居るのも必然ではあると思う。そしてまだ子供の俺たちなら圧倒的に後者の人間が多い。言ってしまえば目だけ、肥えてしまったのだろう。

 それが悪いことかと言われると俺は、そうでもないと思う。感銘を受けたら必ず表現をしなければいけないなんていうことは勿論、ないのだから。

 それに、俺にとっては都合が良い。この部屋を自分で好きなだけ使えて、誰にも文句なんて言われないのだから。

 適当なキャンバスをとりあえずでイーゼルに立てかけ、足の緩くなった椅子に腰掛けてみる。いつか降って来るであろうアイデアを待ち続けながら、ゆったりとした放課後を今日は過ごしてみることにしよう。

 どうせ、誰も来ないのだから。


「あら、もう来てたのね」

「……一部例外を除いて、か」

「は? 例外?」


 俺以外に開けるものは居ないだろうと踏んでいた美術室の扉を開けたのは、天野だった。

 俺の知っている天野の装いとは違う彼女に少し、目を奪われてしまったような気がする。

 冬用の黒い上着に包まれた装いを一転し、主張するのは白だった。ご丁寧に第一ボタンまで閉められたスクールシャツはより一層彼女の几帳さと威厳を表しているようで、添えるように結ばれた紐タイの赤もまた、彼女を表しているようだった。相変わらず背中にまで着くくらいの長髪は暑くないのだろうか。


「その髪、暑くないのか?」

「何年もこうだったから、流石に慣れたわよ。どちらかと言えばあなたの方が暑そうだけど」


 額を伝う汗を彼女は見ていたのだろう。スローモーションかのように、俺の額から頬を流れるその一滴はいたずらにくすぐられているようで少し気持ち悪い。


「どっかのタイミングで切ることにでもするよ」

「私も切ろうかしら。ばっさり」

「……いいのか? せっかくそこまで伸ばしたんだろ?」


 俺は伸びた前髪を指でいじり、天野は伸びた後ろ髪を指でとかす。邪魔をするソレをかき上げてはっきりと視えた彼女の表情は特段、変わり映えのしないものだった。あれだけ伸ばしているのだから相当あの髪との付き合いは長いはずだろうに、冷気を帯びたように冷たい瞳でただただ、見つめているだけ。


「ここまで伸ばしたからと言ってその分、思い入れがあるわけでもないもの。髪に愛着なんて湧くわけないじゃない」

「おぉ、意外にバッサリ言うな」

 髪だけに、なんて言うとその冷たい瞳の標的は俺になるだろうからぐっと、堪えることにした。

「何? それとも朝風君はもしかして、長髪の私が好きなの?」


 さしてその瞳は温度を変えぬまま、なぜか俺を標的にしだす。こいつは急になんてことを言うんだ。本当に。

 ここが美術室で良かったかもしれない。そんなことをほかの誰かに聞かれてしまったら最後、朝風がどうの天野がどうのと噂も疑惑も勝手に一人歩きしてしまうだろうから。

 扉の揺れる音に思わず肩が震える。あけっぱになっている廊下の窓から吹く風がどうせ脅かしに来たんだろう。このタイミングでそれはやめてほしい。


「長髪が好きかどうかはさておいて、どうして『お前』が」

「お前呼びやめて」

「……天野が好きなんてことになるんだ」

「私、あなたの好みなんてわからないもの。そんな可能性だってあるじゃない。それに、あなたが名残惜しそうにしてるんだし」

「してねぇよ」


 わからないからって何でもかんでも可能性を感じるのはやめていただきたい。もしかしてこいつは俺で遊んでいるのだろうか? 潜り抜けてきた男女の場数が俺と天野ではおそらく雲泥の差程あるだろう。ポーカーフェイスで俺を弄んでいるのだとしたら、俺はもう女性という生き物を信用できなくなってしまうかもしれない。

 それに、長い髪に思いを募らせた覚えなんてひとつもない。仮に彼女が明日からショートにして来ても何も……いや、驚きはするか。ただ、それは別に俺じゃなくてもそうなるだろう。あれだけ伸ばしていた髪をだぞ? 何かないとバッサリいくことなんてないだろう。それこそ失恋くらいの……

 失恋?

 ふと、いつぞやの教室での記憶が脳裏をよぎる。あれはたしか俺が弁当を食っていて、そこに天野が来て確か……

 ――朝風くん、大事な話があるんだけど

 ――大事な話!? 天野さんが、朝風君に!?

 ――……俺から話すことなんてねぇよ

 ――あなたにとってはどうでもいいかもしれないけど、私にとっては大事なの!それに、まだあの時の返事聞いてないし

 ――返事!? 天野さんからってこと!?

 ……

 …

 今、散り散りに置かれていた点と点が結ばれ、脳内では星座となってひとつの答えを映し出していた。


「天野」

「ん、何?」

「やっぱりその髪、伸ばしていてくれ」


 クラスの中だけで収まってくれていれば良いが、俺と天野の疑惑は正誤問わず少なくとも、もう一人歩きはしてしまっているだろう。そんなタイミングで彼女が髪を切ったらどうなるか?

 疑惑はクラスを越えて学年を越えて、学校中を駆け回るだろう。悪い意味で。男子からも女子からも平等に向けられる敵意を一心に受け止められるほど俺は強くないのだから、彼女にはこのままで居てもらおう。


「えっ、えぇ、別にいい……けど」


 また彼女はその長髪を撫でながら視線を向ける。不思議とその瞳は熱を帯びているようで、いつもより開かれた瞳孔、その黒目はなかなか戻ることはなかった。

 涼しかった美術室に生温い空気が流れる。湿気を帯びたそれはじっとりと張り付き、一言で言うならば気まずい。それに尽きるだろう。


「そ、そんなことより」


 そんなことで切り捨てた天野は向き直り、白の広がるキャンバスに指を差しながら続ける。


「決めたの? 題材」


 その指の先に向き直してみたが、俺は何も言うことができなかった。それこそが答えであるけれど、口に出すことは出来ずに沈黙を貫いてみる。

 天野と交わした『契約』は絵を描くこと、それだけ。こんな絵を描いてほしい。題材はこんなもの。指定のない自由な契約はかえって俺を悩ませるのだ。


「1日2日じゃ何を描けば良いかなんて浮かぶわけないわよね。最後なら、なおさら」


 そう、今の言葉に全てが内包されている。最も後と書いて、最後。それが終われば俺はもう、何も残さなくなるのだ。

 『何を描くか』、それと同時に悩ませる問題は『何のために描くのか』。

 ――天野のために描くのか?

 それは正しくも間違いでもあると思う。実際に俺はあいつのために絵を描くことになるのだろう。ただ、彼女はそんな絵を受け取ろうとはしないだろう。俺の見る世界を見たい。あいつは確かにそう言ったのだ。

 誰かの気持ちを良くするためにフィルターをかけた世界なんて彼女は初めから望んではいないのだから。

 顎に添えた指に自ずと力がこもる。自分を締め付けることで隅に追いやったひとつの推論を吐き出させまいとするかのように強く、強く締め付ける。

 ――終えるために描く、のか?


「終わるために、描く……」


 漏れた思考は知らずの内に口から洩れていたのだろう。吐息交じりの俺では無い声がオウム返しのように同じ言葉を呟く。


「それじゃあ、こうするのはどうかしら」


 こうする。吐息、ため息。そんな不純物の混ざらない、芯の通った声で彼女は告げる。突飛なことを言う彼女に俺は何をどうするのかなんて想像もできない。ただ不思議と、また俺を図らずも『救う』ような言葉が出てくるのではないかと、そんな予想だけはすることができた。

 実際、俺が勝手に救われているだけではあるけれど。


「朝風くん、あなたの絵を画展に出してみない?」

「画展? あの夏に商店街のどっかで開いてるやつか?」

「えぇ、だいたいそんな感じのものね」


 画展、そういったイベントがこの辺りでいくつか開かれているのは聞いたことがある。市で開かれていたち地区で開かれていたり、規模の大小はあれど夏の暑い頃にはどこかしたで入選した作品が飾られているのを見たことがあるような気がする。


「終わるためなんて、悲しいじゃない。確かにそれは事実としてあるかもしれないけど、あなたが迎える最後はそんな、そんな悲しいものであってほしくないの」

「……少し、考えてみる。それに、描く理由が決まったところで結局、何を描くかは何も決まってないし」

「締め切りがあれば嫌でも描くことになるでしょう?」

「追われる俺の描く絵なんて見たいか?」

「うーん、少しだけ?」


 見たいのか。幸か不幸か、締め切りに追われることは諸々あって慣れているから、間に合わせのものを描くなんてことはしないから安心してほしい。

 悲しいものであってほしくない。それは天野自身が思う願望なんだろう。ただ、その言葉で少なくとも俺の心は少し軽くなったような気もする。また俺は、『救わ』れてしまったのかもしれない。

 終わるために描くのではなく、画展に出品するために描く。特別な理由からすり替えられたありきたりな理由。

 最後にしては特別感のかけらもない。至って普通で単純でありきたり。

 ただ、

 ――意外に最後というものは、そういうものなのかもしれない。




 時は少し遡り……


「何? それとも朝風君はもしかして、長髪の私が好きなの?」


 扉一枚を挟んで聞こえてきた声は小さいけれど、私の心を動かすためには充分すぎるくらいの言葉だった。

 動揺して思わず震えた私は、扉に近づけた耳を大きくぶつける。悟られないように少し離れると、一瞬の沈黙ののち、中のふたりはまた言葉を交わし続ける。

 ここ学校だよ……!? まだ人居るんだよ……!?

 充てもなくぷらぷらと歩いているうちに見つけた、珍しく明かりのついていた美術室。せっかくだし今日は絵でも描こうかと立ち寄ろうとしたそこは鍵こそついていないけれど、何人も冒せない一室のような雰囲気に包まれていた。

 カーテンも閉められて暗い部屋の中、その一部だけが照らされた『ステージ』に居るあのふたりは一体、何の話をしているのだろう。

 いや、何の、なんて言葉は蠢く予感から逃避しているだけなのかもしれない。そういう話でしょうこれは……

 いくら部屋の手前で話しているからとって、そのすべてが聞こえるわけではない。微かに聞こえるソレを拾うように今度こそ悟られぬよう、平常心を携えて耳を当ててみる。


「朝風くん、あなたの絵を画展に出してみない?」


 画展……? 余計に何の話をしているのかはわからなかったけれど、天野さんは朝風くんに絵を出してもらいたいっていうこと……だよね。それがどうしてかはわからないけど、そっか、また『久しぶり』に朝風くんの絵が見られるんだ。


「でもそっか、画展、画展、かぁ」


 その後に続く話も気にはなるけれど、見つからないようにかがめた腰を伸ばし、スカートに着いた埃をはらう。

 他の部活は引退試合がどうとか、新入部員がどうとか、とてもプラプラしてる人が入れるような雰囲気じゃないし、暇なこの時期には丁度良いかもしれない。


「よしっ」


 開いた窓から吹く風を受けながら大きく伸びをして、宛てもなく動かしていた足は目標を定め、見つけた『おもしろそうなこと』に向けて一歩一歩、歩いてみることにしてみた。


「私も一枚、描いてみようかなぁ」