第3話「鈍色に光る」

「――また、絵を描いてみない?」


 その一言はあまりにも唐突で、鋭利で、深く、深く俺を突き刺した。

 色とりどりの色彩に囲まれた画廊の中、ひときわその色を主張する彼女は真っ直ぐに見つめるばかりで、答えを聞くまでここを動くことは無いのだろう。

 その感情も、それに載せる色が何色かはわからない。けれど、その色は塗りたくられて灰色となった俺にとっては目が痛くなるくらいの、原色だった。

 何が天野をそうさせているのかはわからないし、俺が何をしてしまったのかもわからない

 カチ、カチ、掛けられた時計は気楽に時を刻みながら、無意味に急かして笑っているみたいだ。急かされなくても告げる言葉なんて決まっている。

 ただ、告げないだけ。

 喉から出てしまったら最後、その言葉は呪いとなってしまうかもしれないから。


「そもそも――」


 だから俺は、先延ばしにする。それは無駄な延命治療のように見えるかもしれないが、もう少しだけ、今だけは、このままでいたかった。


「そもそも、どうして俺に絵を描かせようとするんだ? ここだったら絵が描けるやつなんて他にも居るだろ。美術部でもなければ才能があるわけでもない、ただの凡人が絵筆と絵具を持ったところで、おもしろいものは何も見れないぞ」


 声は少し、震えていた。背中を伝う汗で制服は張り付き、妙な悪寒に鳥肌が立つ。真綿で自分の首を絞める感覚は当たり前だが気持ち悪い。


「あなたは私にとって、一番の絵を描ける人かもしれないから」


 疑問はさらに疑問を呼んでくれたようだ。これでわかったでしょう? 一度、二度、長いまつげを翼のように羽ばたかせながら見つめる彼女は、そう言っているようだった。わかるわけがない。


「かもしれないのか」

「嘘はつけないもの。もしかしたらあなたと同じくらい、ううん、それ以上の逸材は居るかもしれないもの。そもそも私、あなたの描いた絵なんて見たことないし」

「それでもおま……天野さんは俺に絵を描かせたいと」

「えぇ。それと、『お前』じゃなかったら、天野でも未花でもいい」


 その拘りはなんなんだ。描いた絵を一度も見たことが無いというのに描かせたいなんて、お嬢様というものはやはり、変わっているのかもしれない。それでも生憎、理解したいとは思わない。


「惹かれるものなんて無いのにな」

「……目よ」

「はっ?」


 言うと一歩踏み出した彼女は、前のめりに顔を近づける。少しでも動けば触れてしまいそうな距離、かかる吐息、長く伸びた黒髪は寄せては返し、指の隙間で遊んでいる。

 微かに香る上品で落ち着いた桃の香りはまるで毒のように全身を硬直させ、凍ってしまったように動かない。それは暖かい春の日差しを受けても融けることはなく、彼女しか解けない魔法に俺は、捕らわれたのだ。


「あなたの目は私のソレとは形こそ似ていても、全然違うみたい。少なくとも『落日』は、あなたも見たあの夕陽は、私の目にはそう映っていなかった。朝風君。多分私とあなたは同じ景色を見ても決して、同じ感想を持たなければ同じ結論にたどり着くことはないと思うの、だから、だからこそ――」


 ――その目には何が映っているのか、私はそれが見たいの。

 ――あなたを通した世界を、私は見てみたい。

 こんなことを言われたのは、生まれて初めてかもしれない。

 その実直な言葉と眼差しに思わず顔を背けてしまいながらも、その言葉だけは確かに受け取ることができた。

 脳裏に張り付く彼女の瞳。穢れを知らず、輝きだけを集めたそれを俺は、見たことがあったような気がする。小さく無邪気で夢見がちな、あの頃の自分。

 あの言葉を受け止められたのは、彼女が手を差し伸べてくれたような気がしたからかもしれない。

 あの瞳から逃げたのは、彼女が眩しすぎたから、かもしれない。


「ふっ……」

「なによ、急に笑って」


 不思議と込み上げてくる笑いは、多くの感情に飲まれた心の成れの果てそのもの。笑いたくて笑っているわけじゃない。歪んだ口元、震える喉。ここに居てはいけないと身体が教えてくれているみたいだ。

 縛られた身体に鞭を打ち、背を向けて俺は歩き出す。


「ちょっ……まだ何も聞いてない!」


 一歩、一歩。少しでも早く彼女から逃げられるように、一歩。


「それなら俺は、評論家にでもなった方が良いかもしれないな」


 知らない足音は一度だけ響き、高く良く通るその声は徐々に遠ざかり、廊下に出て以降耳に入ってくることはなかった。

 踏み出すたびに身体は熱を取り戻し、聞こえなくなった足音の代わりに心が叫ぶ。うるさいくらいに跳ねる心音、荒い呼吸。そのすべてが溜まった希望をいち早く吐き出そうとしているように思えてならない。

 やめろ。やめてくれ。

 かつての声が、絵を描いてほしいという彼女の声がいつまでも、頭の中で響く。

 絵を描いても良いかもしれないなんて、思わせないでくれ。

 ――手を、差し伸べないでくれ。


「ん……? あら、朝風君。もう帰るの?」


 暖かくも冷たくもない声に顔を上げると、珍しくスーツを纏う担任はどう答えてもさして変わらなそうな顔があった。


「え、帰っていいんすか?」

「1、2年は強制だけど3年は受験もあるからね……自由参加ってさっき言ってたじゃない。聞いてなかった?」


 もちろん聞いているわけがなかった。聞いていたら今頃はもう、家についていただろう。

 通りで同学年もクラスメイトも見なかったはずだ。いや、同学年は居た……か。


「あぁ、聞いてはいたんですが……」

「3年の自覚がないってこと? まぁ、初日から遅刻だもんねぇ……」


 聞いてないなんて言うとまた飛んでくるであろう小言を避けたつもりが、別方向から飛んできためんどくさい小言が俺を刺す。最初から逃げ場なんてなかったのかもしれない。


「あー、じゃあ俺もう帰るんで」

「あ、ちょっと待って」


 まだ何かあるのか。見えないようについたため息は重く、直ぐに廊下の固く冷たい床に着地して、霧散した。


「1回目の進路希望調査。もう学年で出してないの朝風君だけなんだけど、期限いつまでだと思ってるの?」

「今日……とか?」

「春休み前なんだけど」

「時効とか」

「ないよ」


 言葉こそやわらかいが、見えない圧というものがゆっくりと迫る。逆に言うとやわらかいのは言葉だけなのかもしれない。先生と生徒という立場がそうさせているのか、彼女自身がそうさせているのか。おそらく後者なんだろう。


「実はまだ、決められてないんです」


 それは本心から出た言葉だった。なにをしたいのか、どこに行きたいのか。それは決まっていた。ただ、行きたいから行く。そんな簡単なことで世界が回っているわけではない。

 したくてもできないことはある。させてくれないものはある。

 行きたくても行けないところはある。行かせてくれないところも……あるわけだ。


「ん……そう……今週までには決められる?」

「決められ……いや、決めます」

「そっか。決められなかったら先生にも相談しなよ?」


 変わらない表情から出た言葉は相変わらずやわらかく、今度はそれが優しく俺を包み込む。先生でも大人という立場は関係なくこれもまた、彼女自身がそうさせて、いや、そうしてくれていることなんだろう。

 小さく会釈をしてひとり、階段を駆け上がる。その足取りは弱弱しく、大人の階段を登らせられているようにも思えて、やり切れない気持ちは雲となるばかりだった。




 4月9日 火 天候:曇り

 また今年もOB展示会があった。それは同時にまた、今年もあの絵と再会する日でもあった。

 あれだけ好きだった画家が描いた、あれだけ嫌いだったあの作品に。

 苦手になった1回目。

 嫌いになった2回目。

 何度見てももう変わらないんだろう。学校へ行くまでの間に結論付けたソレをもって臨んだ3回目。

 さよならをする3回目にしようと思っていたけれど、意外にもそれに手を振ることはなかった。

 不気味にしか思えなかったあの夕陽は燃えていて、ソレはあの人自身だ。なんて言った彼の話を聞いて、思わず泣いてしまったのは自戒としてここに書いておこう。

 それまで私はあの夕陽を見て、同じ気持ちになればその真意を知れるなんて思っていたけれど、彼が見出した人生そのものであるのなら、当分見ることは無いのかもしれない。

 芯の丸くなった鉛筆を置き、36本の色とりどりな色鉛筆に手を伸ばす。短くなったソレとゆうに2桁を越えた冊数の絵日記帳を見る度、歩んできた人生の長さを実感させられるような気がする。

 絵日記なんて言うと子供じみたものと人は言うかもしれない。もちろん否定したい気持ちは胸の中にあるが、同時に諦めにも似た受容もそこには確かにあった。別にいいじゃない。子供なんだから。

 鮮明に思い出せる記憶をたどり、線を引き、色を置く。

 くたびれたようにあちらにもこちらにも伸びるやわらかい黒髪、暗くも鈍く光る鋭い瞳、制服を制服として着ていないように、ゆったりと纏う立ち姿。

 『あの時』を思い出す過程で響く彼の冷たく悲しいあの一言。


「――もう描くことはないだろう……どうして?」


 あの声色がどうしてか、濡れているような気がしていた。

 降りしきる雨の中、雨ざらしとなったそれは弱弱しく、憂いを帯びて、まるで何かの傘となっているみたい。

 あなたには何が見えていて、何を隠しているの?

 わからないことを考えるのは無駄だと知っていても、どうして私は思考の海を泳ぐのか。

 泳ぎつつも筆は止まらない。重ねた色は複雑にも絡み合い、私の『視』た彼と、私が『感じ』た彼の心を創り出す。

 引いて塗って重ね描き切ったソレを見て、改めて私は思う。

 彼の世界を見てみたい、と。

 同時に響く掛け時計の音を聞き、ノートを閉じる。純白なシーツの上に身を預けて、その瞳をゆっくりと閉じる。

 彼に向けたソレは私の記憶上、指で数えられる最後のわがままだった。

 あろうことかそれを親ではなく同級生に向けるなんて、年甲斐もないかもしれない。

 そんな自分に小さく笑いながら私は、今日の私に別れを告げる。


「仕方ないでしょう?」


 ――私はまだ、子供なんだから。