第1話「春は何色」

 春とはいったい、何色なんだろうか。

 差し込む朝日、揺れるつり革、学校という日常に俺を運ぶ電車の中でふと、そんなことを考えることにしてみた。すし詰めにされたこんなところで単語帳を捲るほどの元気なんてものが早朝に湧くことはなく、うっすらと漂う倦怠感に負けてしまったのだから、仕方がない。春という季節にはどうしても思い入れがあるから。

 それは良くも、悪くも。

 青春。春は青いと言われることがあるが、別に春の景色が青いということではないことはもちろん、知っている。けれど、春とこれ以上にセットで使われる色なんて他にはないだろう。

 ふと、この間の授業で五行思想という思想が中国で生まれた、ということを思い出した。自然界にあるものすべては木・火・土・金・水に分けられているものらしい。

 これを季節や色を基準に分類したとき、春と青はどちらも「木」という分類に当てはまるから青春と呼ぶ。眠気眼を擦りながら聞いた話の中ではたしか、そんなことを言っていたような気がする。

 あぁ、とりあえず当てはめてみただけだったか。

 けれど実際、青春という言葉は世間に浸透しているし、青い春がどうのと人々は口々に言い、描き、歌う。


「ねぇ、あなた――」


 まさか、本当に青く見えているんじゃないか? 残念ながらそれを否定することはできない。文字通り、他人の目を盗むなんてことはできないから。

 そもそも、季節の色なんて見えているのだろうか。


「ねぇって」


 2回3回、叩かれた肩に痛みは無いけれど、思考を吹き飛ばすには充分の強さだった。人には人のパーソナルスペースというものがある。それは誰もが無意識のうちに持っていて、互いに侵してはならないという暗黙の了解がこの現代にはあったはずではあったが……

 振り返ると声の主はホームから俺を見つめ、まるで反応を待っているかのように怪訝な表情のまま佇んでいた。

 顔も名前も知らない女性は黒よりも黒く、背中にもついてしまうくらいに伸ばした長髪を時折吹き付ける春の風に流され揺蕩い、遊ばせる。添えられた銀色の髪留めが鈍く光る。

 凛とした瞳の黒は力強く俺を惹きつける。光と共に飲み込まれてしまいそうになるが、その引力に逆らうことは出来ないのかもしれない。

 どこまでも深い黒と対照的に、透き通るような白い肌は陽に照らされてどこまでも眩しく、輝いているよう。

 黒、黒、黒。それが彼女に感じた最初の色だった。その色はこれから変わるかもしれないが、変わらないのかもしれない。


「降りないの?」


 同じ制服を纏う彼女は首をかしげながらに言う。


「えっ――」


 閉まるホームドア、進む電車。名前も知らない彼女と完璧なまでに隔たれた数センチはどんどん遠ざかり、やがて何もなかったかのように日常が訪れる。

 ――次は石上、石上でございます。お出口は右側です。

 響く車内アナウンスでようやく真意を知れたと同時に、要らぬ倦怠感がまた俺に付きまとうことになる。

 ……乗り過ごした。

 よくよく考えなくても当たり前の話だった。早朝に同じ制服を着た人間が降りる駅なんてひとつしかないだろう。それなのにただぼぉっとしている人間が居たら気にもなる。声もかけたくなる気持ちはわかる。

 とりあえずで点けた携帯の指す時刻は8時10分。遅刻は確定だろうな。

 どうあがいても遅刻な時刻なのは不幸中の幸いなのかもしれない。早朝から瀬戸際に立たされて走るなんてことはしたくないし、諦められる理由をくれるのであればそれに従うだけで良いのだから。

 それもこれも春という季節がいけないということにしておこう。そんなことはないけれど、責任はとりあえず何かに押し付けたかった。

 空いた席に腰を下ろしてまた、思考に更けてみる。

 乗り掛かった舟だ、この春という季節とはもう少し対話を試みても良いだろう。

 人はよく雷が落ちたように閃くなんて言うけれど、その雷が都合よく俺にも落ちてこないものだろうか。

 丁度この季節に降る春雷みたいな、そんな閃きが。

 結局走る羽目になってしまったのは、生憎にも今日は入学式という日であったから。

 静寂がうるさいくらいに漂う校内はどこか不気味で、誰も居ない教室には旅する花びらだけが出迎えてくれた。どうせ体育の授業何だろう。何食わぬ顔で体育館にでも行っていればなんとなるだろう。その安易な思考を読んでいたかの如く、黒板に走らせた白に王手を打たれていた。

 ――入学式:体育館集合※朝風はその後職員室へ

 ご丁寧に名指しされたそこだけをとりあえず消しながら、適当な机に鞄を置いて、駆け抜けた。

 間に合うことは無いけれど走ってしまうのはどうしてなんだろう。瀬戸際ですらないくらいに溺れてしまっているというのに。

 3階の教室から1階の体育館まではなかなかに離れているけれど、今日はいつもより遠く感じてしまう。走っても咎められない廊下、数段飛ばしても奇異な視線を向けられない階段。学校という日常の中で冒す非日常に一抹の爽快感を感じながら、あの春風よりも早く足を回す。


「終わりに、新入生諸君の充実した高校生活を願って、式辞と――」

「ん?って、朝風君……どうして3年の初日から遅刻してくるかなぁ……とりあえず適当なとこ座っといて」


 息を切らしながら体育館に入った俺を出迎えてくれたのは、聞いてるようで誰も聞いていない校長の声と、頭を抱える担任の姿だった。

 降り注ぐ視線は雨のようで、湿りを帯びたソレが肌に張り付く。一心に受けながらご丁寧に空けられた席に腰かけ、息を整える。


「続いて生徒会長からの『歓迎の言葉』ですが、体調不良につき副会長、天野未花あまの みかさん。お願いします」

「はい」


 しんと静まる体育館に、副会長の足音だけが響く。決まったリズムで、決まった歩幅で歩くその姿を見るのは2回目だった。

 伸ばした長髪はカーテンのように彼女の白い肌を隠し、その優雅な立ち振る舞いは他者を寄せ付けない『気品』に満ち溢れているよう。

 彼女の声は強くもあり、優しくもあり、落ち着きを纏うスピーチが始まった。突然決まった代役であるはずなのにまるで、もともとそうなるだろうと準備していたかのように。


「私自身、学び舎は学業を修めるためだけのものではないと、他校とは違う本校が故の特色に触れ、学び、自分を見つけることができました。これから3年間。皆さんは多くの経験をしていくことになると思います。それは楽しいことかもしれませんし、うれしいことかもしれませんし、悲しいことかもしれません。けれど、その全てを糧にできるような学校生活を送っていただければと思います。生徒会副会長。天野未花」


 『完璧』なスピーチに形だけの拍手を送りながら、彼女を見つめてみる。


「特色ねぇ」


 うちの高校は天野が言っていたように、他校と比べると確かに特殊かもしれない。

 高校というものは普通、大学受験であったり就職であったり、差はあれど学業を修めるためにあるものだと思っていた。そうあるべきだとまでいうことは出来ないけれど。

 少なくとも自分探しをするような場所では無い。と思っていた。

 普通科を謳っておきながらその実、うちの普通科は普通ではない。美術、音楽、芸能。受験にはさほど関係のない科目に力を入れているのはその最たる例だろう。

 見たことのない概念に触れ、知らない感情に触れ、3年間という長い時間をかけ咀嚼したソレらを通して自分を知ってほしい。視野を広げてほしい。そんなことを校長がどこかで言っていたような気がする。一応普通科を謳っているのは、広げた視野に映る夢を追いかけられるように、ある程度どこへでも行けるようとした配慮だとかなんとか。数年開いていない生徒手帳にもおそらく、そんなことが書いてあるだろう。

 入学式後にあるアレも『特色』のひとつだろう。その洗礼を受けることもこれが最後と考えたが、寂しさも悲しさもなかった。

 俺はもう、絵画に触れることはやめたのだから。

 自分を探すようなこともしなければ、視野を広げるようなこともしない。

 普通に生きて、普通に卒業して、普通に進学して、普通に普通を謳歌するんだ。するべきなんだ。


「以上を持ちまして入学式は終了となりますが、最後に。OB展示会についての説明を実行委員長天野未花さん、お願いします」


 それにしても……


「はい」


 あいつ、いくつ肩書持ってんだ?