第20話

 田辺に案内されて辿り着いたのは、一軒のアパートだった。

 桜子はアパートを指さす。

「これは、築何年ですか」

「そうやな、二十年くらいになるか。間取りは1DKで家賃は五万円。まあ、古いけど広くて、安めに設定しとるわ。こういう家が必要な人もおるやろ」

 外階段の手すりは錆だらけで、壁にはひびが入っており、郵便受けは崩れ落ちそうなくらい塗装が剥げている。はっきり言って、ボロい。いくら広くて安いとはいっても、桜子なら決して住まない家だ。

 こういう家を必要としている、という意味。例えばお金に困っている、子連れのシングルマザー。

 考えて暗い気持ちになってきた。子どもが餓死したのだから当然だが、気持ちのいい事情があったわけはない。

「清隆さん、何か感じます?」

「二階かな。何かあるとしたら」

「せやねん。202号室が、その事件があった部屋や。でも、その両隣からも苦情が来とる。202号室がうるさい言うて。誰も入っとらんのにな」

 聞くだけでぞわぞわする話だ。怖いもの見たさがむくむくと育ち始める。

「うるさいって、どんなうるささですか」

 清隆は目をアパートに向けたまま訊く。

「子どもの遊んでいる声が聞こえてくるらしい。子どもがやかましいのはある程度仕方ないと、両隣の住人も我慢するんやけど、それでも我慢ならんくらいの声なんやと」

「子どもはおろか、誰もいないのに」

「そういうことやな」

 夜、一人でテレビを観ていたら隣の部屋から聞こえてくる子供の声。管理会社に苦情を届けると、隣は無人だという……。いかにも現代怪談だ。

「配管を伝って声や生活音が響くってケースもあると聞きますが」

「それもあるが、だいたい上の階の足音なんかが聞こえるもんや。見てみい。うちは二階建て。聞こえてくる上の階があらへん」

 たしかに。田辺の言うことはもっともだし、配管伝いの音と隣から聞こえる音とでは、さすがに聞き分けできる気がする。

 清隆は、幽霊を消滅させることに否定的な立場だ。会話や交渉でなんとかなるのなら、どいてもらうことで解決を試みる。浅田のように、正気に戻すだけで解決することもある。今はどうやって問題を解決するか、そもそも相手は人間に害為す幽霊なのか、話から見極めようとしているのだろう。

 そして、田辺の話を総合すると、おそらくクロだ。202号室の子どもの幽霊はほとんど確実にいて、その部屋に入居する人間だけでなく、両隣にも影響を与えている。

 除霊対象だろう。手段はともかく。

「行ってみようか。田辺さん、鍵を貸してもらえますか。俺たちだけで行きます」

「そうか? 儂も見届けたいんやけど」

「いざというとき、守る相手が多いと危ないかもしれませんから」

「そんなに危険なんか?」

「彼らは、霊感が無い人間には小さな影響しか与えることができません。それでも住人を退去させてしまうほどの力がある。俺のような霊感が強い人間が入ると、活性化する可能性があります」

「そっちの姉ちゃんは入ってもええんか?」

「まあ、囮の意味もあるので」

「ちょいちょい、囮って」

 桜子が抗議すると、清隆が無表情に補足する。

「間違えました。男に反応しない霊、というケースの場合があるので、桜子さんがいた方がいいんです」

 本当は、桜子の野次馬根性を満たすために連れて行ってもらっているだけなのだが、清隆はなんとか説明をつけてくれる。助手だから、の一言でいいのに、と思わないでもない。

「まあ、そう言うんなら鍵は貸すけども、中の物は壊さんといてくれよ」

 田辺はポケットから鍵束を取り出し、202号室の鍵を外して清隆に渡す。

「行こう、桜子さん」

「はい」

 桜子たちたちは田辺を残して、外階段を上った。案外というか、足元はしっかりしている。そうでないとアパートとして経営できないだろうが。

「古い物件ですね」

「築四十年って物件を見たことがあるから、俺はそうは思わないけど」

「それも除霊で?」

「そう。まあ、子どもの頃に修行の一環で行った除霊だった。あの頃で四十年だったから、現存していたら五十年か六十年くらいになっているだろうな」

「途方もないですね」

「俺たちの人生より長いことあるわけだもんな。あ、いや、桜子さんと同じくらい?」

「私のこと、そんなに年取っていると思っていました? まだ二十代ですよ」

「年齢聞いていいの?」

「履歴書読んでいるでしょ」

「忘却した方がいいのかと思っていた。帰ったら読み直すね」

「読み直すな。忘れていろ」

 そんな話をしていると202号室の前に着いた。

 清隆は迷うことなく鍵を差し込む。

「何かいそうですか?」

「いるね。間違いなく」

 鍵が開き、一拍空けて清隆はドアを開ける。清隆の足取りに迷いはない。桜子が一歩踏み込むと、空き物件特有の、排水の匂いがした。

 清隆は手前のドアから順番に開きながら奥へと進む。それに倣って中を確かめると、トイレ、風呂付き洗面台があった。どちらもタイル張りの、年代を感じさせる造りになっている。

 その奥はキッチンダイニングになっており、そこに立つと奥に和室が見えた。これで全てらしい。

「いましたか?」

 桜子の目には何も見えなかったが、清隆は注意深く目を配っている。

「妙な気配はある。話を聞いた限り、地縛霊で間違いないだろうけど……」

 清隆が言葉を止め、桜子に目線を向けたまま動かなくなった。

「どうしました?」

「桜子さん、それ」

 清隆が桜子を指さす。その指は下を向いていた。

「何です?」

「足」

「足?」

 桜子が目線を落とす。自分の足が視界に入ったとき、目を疑った。

 桜子の右足に、小さな子どもが抱きついていた。

 息を呑む。髪の短い男の子だ。二歳か三歳。目が真っ黒で、白目がない。その目が真っすぐに桜子の目を覗き込んでいる。

 途端、右足が重くなった。床に引っ張られるようで、桜子の喉からうめき声が漏れる。子供一人分の重さじゃない。成人男性がしがみついているかのような重量感が襲ってくる。

「女性に反応したか。意図せず囮作戦成功だな」

「そんなこと言っている場合ですか」

「逃げられるよりはいい」

「いや、助けてくださいよ。めちゃくちゃ重くて。あと痛い。掴まれているところが痛い」

「痛いか。ということは、悪霊になりかけているな。俺が呼ばれてよかった。何か話しかけて。言葉が通じるなら話を聞きたい」

「私がですか?」

 このコンディションで会話を、だと。

「その子、桜子さんしか目に入っていないから」

 たしかにしがみついたまま見つめられているが。真っ黒な目でじっと見られているが。

 このまま黙っていても始まらない。桜子は意を決して目を合わせる。

「君、ここの子なのかな」

 黒鉛のような目に話しかける。しばらく、何の反応もなかった。子どもは桜子を見上げたまま口を半開きにして重さをかけ続けてくる。

 その口が、急に動き出した。

「お母さんお母さんお母さんキャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 壊れたように笑い始めたと同時に、しがみついている手がもぞもぞと蠕動を始めた。声とその動きが鳥肌を誘い、桜子は総毛立って、子どもを振り払おうと足を振る。しかし、離れてくれない。

 笑い声が叫び声に変わる。

「ア――――――――――――――――!」

 桜子は耳を塞いだ。しかし、全く音が緩和されない。骨を伝って頭蓋骨に直接響いているかのようにガンガンと鼓膜を揺らしてくる。

 音源からなんとか距離を取ろうと上半身を反らすと、右足に重量がかかっているせいで、バランスを崩して倒れてしまった。子供の手の感触が、ずり、と上に上がってくる。

 叫びながら、顔に近づいて来る。そうなると、どうなる。

「桜子さん!」

 清隆の声がした。急に右足が軽くなる。叫び声も途絶えた。

 体勢を立て直すと、清隆が子どもを部屋の奥にぶん投げているのが見えた。

「撤退だ」

 立ち上がろうとする桜子の手を取って、清隆は玄関へと走る。靴を引っ掛け、急いでドアを閉める。桜子は転がるように階段を駆け下り、何事かと驚いている田辺のところまで戻った。

 急に落ち着きが取り戻され、太陽の温かさを実感する。もう大丈夫だ、という確信がなぜかあった。

 少し遅れて、清隆が後ろを気にしながら降りて来た。

「なんだ、どうなった」

 事情を知らない田辺が、桜子の様子を見て狼狽える。桜子はようやく靴を履き直し、地面にしゃがみ込んだ。

 清隆が、スイッチの入ったような目で言う。

「田辺さん、あれを放置していてはいけません。いずれ、重篤な被害が出ます。入居者がすぐに退去する、なんていうのは可愛いものです」

「そんなにか」

「ウチの助手が被害に遭いかけました。もしかして、退去した入居者は全て男性ではありませんでしたか」

 田辺は腕を組んで思い出す素振りを見せる。

「たしかに、思い出せる限りでは、男ばかりやった」

「それですね。だから比較的軽微な被害で済んだんです。女性が入居していたら精神を病んでしまったことでしょう」

「その姉ちゃんに、何があったんや」

「説明が難しいですが、憑りつかれかけました。しかも非常にうるさい、健康に悪い形で」

 健康に悪い形とは、マイルドな言い方だ。あのまま放っておかれたら、冗談ではなく死ぬかと思った。

 足でよかった。最初から頭に抱き着かれていたらどうなっていたことか。

「田辺さん、我々は知る必要があります。あれがなぜ悪霊となりかけているのか。どうしてあそこまで凝り固まってしまったのか。どうか、教えてください。あれと同居していた母親を」