「あ、花琳。
花琳は部屋に……」
そこまで言ってなにかに気づいたのか彼が止まる。
「それでか」
再び彼は面倒臭そうに大きなため息をついた。
「花琳。
悪いけど僕が買った服に……」
しかし言い終わらないうちに玄関のチャイムが鳴る。
「そんな時間もない、か。
はいはい、今行くよ」
「あっ」
私の手を掴み、強引に彼が歩き出す。
「僕にあわせて。
花琳は僕と違って空気が読めるから大丈夫だと思うけど」
歩きながら言われ、なにか考えがあるのだろうと頷いておいた。
「はい」
「もう!
暑い中、いつまで待たす気?」
宣利さんが鍵を開けた途端、待ち切れなかったのか向こう側からドアが開く。
「すみません、姉さん」
入ってきた典子さんに宣利さんは詫びているが、別に数分も待たせていない。
「あら、花琳さん。
いたの?」
嫌らしくにたりと典子さんの目が歪む。
今からどう獲物をいたぶってやろうかというその目に、背筋がぞくりとした。
「……おひさしぶりです、お義姉さん」
緊張しきってギクシャクと頭を下げる。
「私はあなたを義妹だなんて認めてないんだから、お義姉さんなんて呼ばないで。
気持ち悪いわ」
さも穢らわしそうに彼女は私から目を逸らした。
「申し訳ありません、お……典子さん」
屈辱の気持ちで再び頭を下げる。
「……姉さん」
すぐ横から凍えるほど冷たい声が降ってきて、びくりと身体が震えた。
「花琳が気に入らないのなら、すぐに出ていってもらえますか」
おそるおそる見上げた先では、宣利さんが薄らと笑っている。
仏像のようにとても美しいその笑顔は恐怖を抱かせ、身体の芯から凍りつく。
長い指先は出ていけと、ドアを指していた。
「や、やだ。
冗談に決まってるじゃない。
そんなに怒らないでいいでしょ」
慌てて典子さんは取り繕い、勝手にリビングへと進んでいく。
なにかと態度の大きな彼女だが、それでも先ほどの宣利さんは怖かったようだ。
リビングで典子さんは長ソファーに迷いなく座った。
お茶を淹れに行こうとしたら、宣利さんが止める。
「いいから」
「でも……」
お茶も出さなければさらに典子さんに嫌みを言われる。
けれど宣利さんは行かせてくれそうにない。
「座って」
宣利さんが指したのは、ひとり掛けのソファーだった。
戸惑っていたら自分はスツールを引き寄せて座ってしまう。
もうそこしかあいていないので仕方なく、ひとり掛けのソファーに腰掛けた。
「あら。
宣利を差し置いてあなたがそこに座るの?」
すぐに典子さんが意地悪く指摘してくる。
だから嫌だったのに。
「なにを言ってるんですか、姉さん。
花琳は僕の子供を妊娠しているんですから、この家では僕より立場が上ですよ。
そんなこともわからないんですか」
はぁっとこれ見よがしに、呆れたように宣利さんがため息をつく。
おかげであっという間に恥辱で典子さんは顔を真っ赤に染めた。
「それで。
なんの用ですか」
宣利さんの声は素っ気ない。
というか相手をするのが面倒臭そうだ。
「それよりこの家はお茶も出ないの?」
私へちらりと視線を向け、仕返しだとばかりに典子さんがため息をついてみせる。
「あ、あの」
慌てて立ち上がったものの、宣利さんから目で座れと命じられた。
「招かれざる客に出すお茶はないですよ」
それでも迷っていたら、彼がしれっと言い放つ。
典子さんがなにか言おうと口を開いたが、じろりと眼光鋭く睨みつけ、宣利さんは封じてしまった。
「入れてもらえないからと守衛を恫喝して、大騒ぎ。
我が家の恥をさらすわけにはいかないので入れて差し上げましたが今後、こういうのはやめていただきたい」
「宣利!」
激高した典子さんが怒鳴り、空気がビリビリと震える。
私は頭を押さえつけられた気分になって身を縮こまらせたが、宣利さんは真っ直ぐに彼女を見据えていた。
「誰のおかげでこの家の主になれたと思ってるんだ!」
「誰?
少なくともあなたのおかげではないと断言できますね」
唾を飛ばして怒鳴り続ける彼女とは反対に、宣利さんは涼しい顔をしている。
「そんなに大きな声を出さないでいただけますか。
花琳が怯えて可哀想だ」
気遣うようにそっと、宣利さんは私の手を握ってくれた。
「それとも守衛を呼んで摘まみ出してもらいましょうか」
今すぐそうすると言わんばかりに宣利さんが携帯を手に取る。
「わ、わかったわよ」
それで負けを認めたのか、典子さんは急におとなしくなった。
とはいえ、お茶もなくこの変な場を凌ぐのは至難の業に等しく。
それに少しでもこの姉弟喧嘩……になるのかわからないが、とにかくこの喧嘩から離れたい。
「あの。
私、お茶を淹れてきますね」
そろりと腰を浮かせる。
「だから姉さんにお茶なんて出さなくていいから」
しかしすぐに、宣利さんに止められた。
「いえ。
私が喉が渇いたのでついで……というか」
適当に笑って誤魔化し、立ち上がろうとする。
「じゃあ、僕が淹れてくるから花琳は座ってて。
あ、姉さん。
花琳に不快な思いをさせたら、すぐに摘まみ出すからね」
「あっ……」
私が完全に立つよりも早く、宣利さんは立ち上がってキッチンへ行ってしまった。
……き、気まずい。
典子さんは私をよく思っていない。
結婚はお金目当てだと思われていたし、さらに邪魔だと思っている弟の妻だからそうなる。
一族としても会社としても次のグループCEOは宣利さんに期待が集まっているが、典子さんはそれが気に食わないらしい。
「子供ができたからって復縁を迫るなんて、やるわねぇ、あなた」
先ほど宣利さんが言ったことを理解していないのか、ねっとりと絡みつく声で早速典子さんが嫌みを言ってきた。
「いえ、私から復縁を迫ったわけでは……」
「そんなはずないでしょ。
あの宣利が女に興味を持つはずがないもの」
私の訂正はぴしゃりと典子さんに切って落とされる。
「あなた、宣利がまわりからなんて呼ばれてるか知ってるの?」
ひそひそ話でもするように、彼女は私のほうへ身を乗り出してきた。
「……〝ロボット〟」
囁くように言って私と視線をあわせ、彼女が意味深に目を細める。
「そう呼ばれてるのよ」
顔を離し、典子さんはおかしそうにころころと笑った。
「誰にも無関心、ただ命じられるがままにやるだけ。
ほら、ロボットと一緒じゃない?」
認めたくないが、それは少しわかる。
だからこそ食事をサプリメントで済ませたりしていたんじゃないだろうか。
「それに学生時代も卒業してからも、浮いた噂どころか女に見向きもしない。
ゲイなんじゃないかって話もあったけど、男の影もないし」
つまらなそうに典子さんがため息をつく。
「そんな宣利に子供ができた?
ありえない」
腕を広げ、大仰に彼女が肩を竦める。
「ねえ。
本当にその子、宣利の子なの?」
「失礼ですね。
本当に僕の子供ですよ」
そのタイミングで宣利さんが戻ってきた。
お盆の上のカップからはふくよかなコーヒーの香りがする。
「そんな失礼なことを花琳に言うのなら、姉さんの分はなしです」
テーブルの上にふたつだけカップを置き、残りを彼が下げようとする。
「じょ、冗談に決まってるじゃない!」
慌ててひったくるように典子さんがカップを奪う。
それを見てくすりと小さく笑うなんて、宣利さんは性格が悪い。
「カフェインレスだから安心して飲んで」
そっと私に耳打ちし、ちゅっと頬に宣利さんが口付けしてくる。
しかも典子さんをちらりと見てにやりと笑うんだから、やはり性格が悪い。
おかげで彼女は苦々しげに顔を顰めた。
「ちょっと。
カフェインレスなんてマズいもの、飲ませないでよ」
典子さんはカップを口につけるところだったが、わざとらしく音を立ててソーサーに戻した。
「うちはすべて花琳ファーストなんです。
文句があるなら飲まなくてけっこう」
ばっさりと典子さんを切り捨て、宣利さんはさっさとキッチンへ行ってしまった。
「なんなの、アイツ!
花琳、花琳って!」
典子さんはブチ切れているが、さっきからこれだけ馬鹿にされればその気持ちはわかる。
「ねえ。
あなた、アイツになにしたの?」
「さ、さあ……?」
聞かれても、困る。
反対に私のほうこそ聞きたいところだ。