彼女は
「君は
彼女ははじめて出会ったときもそう言って、ずぶ濡れの黒皇のからだを湯で洗い流し、丁寧に羽毛の水分を手ぬぐいでふき取ってくれた。
屈託のない笑みに、いつしか黒皇の警戒心はとけ、彼女のことを目で追うようになった。
そして黒皇は、彼女がよく寝つけないことを知った。
「夢を見るんだ。悪夢ってやつかな。でも君といると、よく眠れるんだ」
黒皇を枕もとに寄せ、濡れ羽色の羽毛をなでる指先は、ひんやりしている。
一方で彼女にふれられるたび、ぬくもりが黒皇の胸にひろがった。
「明日の朝には、またどこかへ行ってしまうんだろう? さびしいものだね……」
寝台に横たわった彼女は、どこか儚い。
彼女が弱音を吐くのは、このときだけ。
黒皇とすごす、夜だけ。
黒皇だけが、知る表情なのだ。
「この夢が、覚めないといいのになぁ……」
かすれた声でつぶやいて、すぅっと閉じられる彼女のまぶた。
かすかな寝息が、静寂の闇夜に聞こえる。
「私も……そう思います」
返事がないとわかっていて、黒皇も言葉にせずにはいられなかった。
もはやほほにすり寄るだけでは足りない。
翼をひろげた烏の影が、かたちを変えて彼女を覆う。
「あなたさまは、なにを背負っておられるのですか? あなたさまを苛むものは、何なのですか?」
ぎしりと音がして、現れた『青年』の体重に、寝台が沈む。
黒皇は横を向いて眠る彼女の黒髪をすくい、耳にかける。
「教えてくだされば、私が『わるいもの』を焼き尽くしてさし上げるのに」
言葉にするほど、黒皇の想いがあふれる。
「あなたさまを、さらってしまいたい……」
いつから、なんておぼえていない。
明確な『なにか』があったわけでもない。
けれど、じっくりと果実が熟すように、ふれあいをかさね、この感情は花ひらいた。
「愛しているんです……『ハヤメ』さま」
無数の宝玉が沈む水底へ飛び込んで、彼女という存在に溺れてしまった。
「あなたさまがいないと、息苦しい……」
黒皇はどうにもたまらなくなり、両ひじをついて、彼女へ覆いかぶさる。
そのまま吸い込まれるように、彼女の無防備な唇をついばんだ。
「『ハヤメ』さま、『ハヤメ』さま……」
いけないとわかっていながら、一方的な口づけがとめられない。
何度もついばむさなかに、音でしか聞いたことのない彼女の名を、とくに意味もなく、黒皇はくり返す。
(私の……
そうすれば、こんな夢か現かもわからぬ世界から、彼女を連れ出してしまえる。永遠の時をともに生きることができる。
(つがいになれば、彼女は私のものに──)
その身もこころも、永遠に愛すことができる。
なんと甘いひびきだろう。
無意識のうちに、彼女の
「……どうかしているっ!」
そんなものは愛ではない。
おのれの欲をぶつけるだけの行為が、愛であるはずがない。
黒皇も、こころの奥底ではわかっていた。
彼女自身が、そんな決着を望まないことを。
「あなたさまのお声が、聞きたいのです……」
彼女が望めば、『これ』は欲ではなく、愛になる。
だからその声で、どうかつむいでほしい。
「私をさらって」──と。
静寂。むろん、黒皇の懇願に返される言葉はなく。
「ばかみたい、ですね」
自嘲気味な笑みをひびかせ、黒皇はいま一度唇を寄せる。
これが最後だと言い聞かせ、彼女のやわらかい唇を、その花の香ごと吸う。
思い出されるのは、「わが友」と話す彼女の笑顔。
それこそが、すべての答えだろう。
「たとえ友でしかなくとも、黒皇は、あなたさまをお慕いしております──『ハヤメ』さま」
愛しいひとをきつく抱きしめ、待ち受ける別れの苦痛に奥歯を噛みしめて耐える黒皇は、気づかなかった。
寝息を立てる彼女のまぶたが、わずかに震えたことに。
* * *
『その世界』が夜明けを迎えるとき、黒皇は
(……この想いは、凍らせてしまおう)
燃えさかる恋情を凍てつかせ、一生この身に背負い続ける。
それが、叶うはずのない恋に溺れてしまったおのれに科す、罪だ。
(せめて、見守ることだけは……ゆるされるでしょうか)
彼女が人として、幸せに生き抜くことを見届けよう。
そうすれば満足だと、思っていたのに。
「──あなたは、最低なひとだ」
ある日瓏池をおとずれた黒皇の前に、予想だにしない光景が映し出される。
水面には、ふたつの人影。
愛する彼女と、ひとりの男だ。『マツナミ』と呼ばれていた青年だったか。
「あなたが、そんなだから……私がどんな気持ちでいるのかも知らないで、のんきにヘラヘラ笑ってるから!」
黒皇は呼吸の方法も忘れ、呆然とその光景を目の当たりにする。
『マツナミ』が彼女に覆いかぶさっていて、彼女の腹部には、深々と、銀色のなにかが突き刺さっていて。
「死んでください。私もすぐに逝きますから……いっしょに地獄に堕ちましょうね……っくく、あははっ! これであなたは私の、俺のものだ! あははははっ!」
やがてくずれ落ちる彼女のすがたを、鮮烈な
一瞬の沈黙。それから。
「──ッ、あぁああぁああッ!!」
絶叫。
濡れ羽色の髪を掻き乱し、黄金の双眸からとめどなく涙をあふれさせながら、黒皇は半狂乱になって叫び狂った。
なぜだ。どうして。
こんなことが、あっていいはずかない。
「こんなことになるなら、無理やりにでもさらってしまえばよかった! 臆病風に吹かれずに、想いを告げていればよかった!」
いまさら悔やんだところで、手遅れ。
「ごめんなさい、『ハヤメ』さま……私のせいですっ、あなたさまを、お守りできなかった……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
黒皇はみっともなく、地面に額をこすりつける。
『悪夢』を映した水面は、慟哭に揺らめき。
ただただ透明な色をして、鈴の転がるような音色を奏でるばかりだった。