第50話 悪なる者【前】

《はい、クラマです》


 最初にどんな言葉をかけようかとか、考える暇すらもなく、ハヤメは笑ってしまった。


「応答早すぎやしないか?」

《ちょうど画面を見ていたときだったんです》


 どうだか。

 172回も着信を寄こしてきたクラマのことだ。

 口ではすましていても、実際は四六時中画面にかじりついていたに一万票入れてやる。


《ハヤメさんから連絡くれるなんて、めずらしいですね? 俺からの着信はとらないくせに?》

「ははっ、そんなこともあったネー」

《笑いごとじゃねーよ。反省しろよ》


 無茶なことを言わないでほしい。

 ツンとスネたようなその物言いを聞くと、ハヤメはひどく懐かしくなってしまう。


《それより、なんで音声通信だけなんです? モニターONにしていいですか?》

「えー、だめ」

《だからなんで》

「いまお着替えしてるからー」


 ばかっ、なに言ってんですか、あんたは!


 クラマが大慌てで叫ぶさまを想像して、ハヤメはまた笑ってしまった。

 けれど妙なところで勘がいい年下上司は、思いどおりにはなってくれないらしい。


《あのですね、出不精ならぬ連絡無精のハヤメさんが、『ただおしゃべりしたいからー』なんて理由で、連絡なんてしてこないですよ》

「ほう、それは初耳だ。本人だけど」

《モニター、つなぎますからね》


 やっぱり、ごまかされてはくれないかぁ。


 あきらめにも似た自嘲をこぼしながら、ハヤメは観念した。

 直後、月光ではない仄明かりに照らされるような、まぶしさがある。


《そっちは夜ですか? てか……なんて格好してるんですか、ハヤメさん!》


 皮肉をまじえたクラマの声が一変し、焦燥をおびる。

 ハヤメの上質な襦裙じゅくんは薄汚れ、ところどころに赤黒いしみ。

 さらにハヤメは、右手に刃のむき出しになった剣をにぎっているのだ。

 ただならぬ状況であることは、クラマも瞬時にわかったことだろう。


《怪我は……って、首! 首どうしたんですか!?》

「これは自業自得というか、見た目ほどひどくないから安心してくれ。服の血も私のじゃないよ。ちょっといろいろ面倒なことになってね。先に言っておくと、あまり時間もない」

《やばい状況なら、なおさら説明してください! 現在地照合をして、マップ情報を送りますから! 早く安全なところに……!》

「いや、いい」

《えっ? ちょっ……!》

「必要ない、と言ったんだ」


 有無を言わさぬ圧さえ感じさせるハヤメの言葉に、クラマがうろたえる。


「自分でどうにかする。君は口を出さないでくれ」


 天然で楽天家で、いつものほほんとしているハヤメらしくない、厳しい声音だった。


《……ふざけるのもいい加減にしてください》

「大真面目だ」

《ふざけてますよ! 助けを求めるつもりもないのに連絡してきて、喧嘩売ってんですか!?》


 ハヤメもわかっていた。クラマを怒らせてしまうことを承知の上で、こんな馬鹿を言うのだ。


《あなたはいつもそうです。全部ひとりで背負い込んでしまう。なんで俺を頼ってくれないんですか! ハヤメさんにとって、俺はその程度の存在なんですか!?》


 クラマの言葉は正しい。

 自分は間違っている。

 だけれどハヤメも、一度進むと決めた道を、変えることはできないのだ。


「違うよ。君だからこそ、だ」

《意味がわかりません……っ!》

「君が大切な存在だから、巻き込みたくないんだ」

《なっ……》


 聞こえはいいだろう。

 だがこれも、しょせんはハヤメ個人の主観。

 自己満足の横暴を押し売っているだけ。

 憂炎ユーエンへの仕打ちと、なにひとつ変わらない。


「君も知っているように、私はろくに連絡も寄こさない、ひどいやつだ。だからもう、こんな薄情者のことなど忘れてくれ」

《まさか……待ってください、ハヤメさん》

「君ならきっと、私より素晴らしい部下をそだてていけるよ」

《……お願いです、やめてください》

「クラマくん」

《いやだっ、ききたくない!》

「きいて、クラマくん」

《好きなんです! ハヤメさんのことが、好きで好きでたまらないんです! ハヤメさんがいなくなったら、俺は、俺はどうすればいいんですかっ!》


 すがるクラマの声は、いままで聞いたことのない悲痛なものだ。

 すべてをかなぐり捨て、クラマが引き留めようとしている。


「ありがとう」


 ハヤメのそれは肯定ではなく、拒絶。


「君を忘れないよ」


 私を忘れてとねがう唇で、君を忘れないとわらう。

 これは救いようのない、ハヤメの身勝手だ。


《うそだ、そんな……いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ……っ》

「さようなら、クラマくん」

《俺をおいてかないでっ、ハヤメさんっ、ハヤメさんっ、ハヤメさぁあんッ!!》

「……ごめんね」


 ハヤメは左腕を振り上げ、迷いとともに、クラマの絶叫を握りつぶす。

 ぷつん、と空中の画面がブラックアウトし、静寂だけが取り残された。

 IPアドレスも、アクセス権限も破棄した。ハヤメとクラマをつなぐものは、もうどこにもない。