その日の朝、リビングと縁側をつなぐテラス窓を開けた瞬間、わたしは気づいた。
冬が来た、と。
高校卒業まで、長野県の豪雪地帯に住んでいたわたしは、冬の訪れに敏感だと思う。
もちろん、東京は地元よりもずっと寒さが緩い。だけど、季節の変わり目ごとに、空気が変化するのをはっきりと感じる朝があるのだ。それが今日だった。
「おはよう」
シャワーを終えて、長袖シャツに身を包んだ蓮さんがわたしの隣に来た。並んで外を見る。
「おはよう、蓮さん」
蓮さんの精悍な身体から石鹸の香りがして、わたしは少しドキドキした。
「目が覚める気候だね」
外の空気を深く吸い込みながら、蓮さんが言う。
「ごめん、寒かった? 毎朝換気をするのが習慣で……」
蓮さんはわたしの方を見て、柔らかく笑う。
「外の空気は気持ちいいから大丈夫」
蓮さんのテラスハウスで暮らし始めてから、1ヶ月が経とうとしていた。
航のアシスタントの件は、彼の転機のおかげで何とかなった。彼は倉本先生のところへ行き、「やっぱり椿井さんには荷が重すぎます。彼女が足手まといになるのは目に見えているので、俺ひとりでやります!」と宣言したのだ。
そこまで言わないと、倉本先生がわたしを外さないことは分かっていたけれど、それを聞いたときには「あいつ……!」と思ってしまった。でも、昔のように軽口をたたき合う友達に戻れた気がして、何だか少し嬉しかったのは内緒にしておこう。
わたしはドラマ制作のルーティンに戻った。制作部にキャリア採用のスタッフが加わったおかげで、仕事は格段に楽になった。21時までの残業はざらにあるけれど、徹夜することはほとんどない。
蓮さんとの生活にも慣れてきた。同棲というよりは、本当にルームシェアだ。だけど彼と過ごす時間は、意外にも気楽で心地よいものだった。
彼は本当に料理が好きなようで、一緒に暮らし始めた当初は、いつも蓮さんが食事をつくってくれていた。とはいえ、蓮さんの方も仕事で遅くなる日があるので、夕食は1週間分をまとめて調理して、冷蔵か冷凍しておくスタイルに落ち着いた。
夕食は別々になることが多いので、わたしの方でも簡単なスープやサラダをつくり、蓮さんのために用意しておくのが習慣になった。今では週末など時間が合うときには、ふたりでキッチンに立って料理を楽しんでいる。
自炊は煮物や焼き魚などの和食が中心で、外食の行きつけは日本料理かエスニック料理店。それから意外と甘党で、和菓子とヨーグルトが好きだった。
彼は、スリムな身体のどこに容量があるのか謎なくらい、しっかりと食事をとる。その代わり、週に3〜4回、会社の近くのジムに通って、筋トレとトレッドミル、それにスイミングをしているようだ。蓮さんの機能的な身体はワークアウトの賜物なのかと、妙に納得した。とはいっても、彼の一糸まとわぬ肉体は、上半身ですら見たことはないのだけれど。
本が好きで、デジタルより紙派。1冊を読み終えると、内容を整理するかのように散歩に出かける。ほかにも考え事をするときなど、蓮さんは河川敷までの長い散歩に出かけた。最初の頃は、彼がひとりになりたいのだろうと思って黙って見送っていたが、あるとき「薫も散歩する?」と声をかけられてからは、ふたりで歩く時間も増えた。
モデルのように整った顔と都会的なスタイルからは想像できないほど、素朴で穏やかな蓮さん。最初に抱いていたハイソなイメージとはかけ離れて、いい意味で地に足のついた人だった。
「厚焼き玉子ができたよ」
蓮さんがキッチンから声をかけてきた。
今朝のメニューは、蓮さんがつくり置きしたレンズ豆のサラダと根菜のコンソメスープ、それに蓮さん得意の厚焼き玉子。土鍋炊きのご飯は絶賛蒸らし中だ。スーシェフのわたしは、キウイフルーツをスライスして、今日の役目を無事終えた。
タイマーが鳴って、蓮さんが土鍋の蓋を開ける。中からは、香ばしい蒸気とともにキラキラと輝く炊きたてご飯があらわれた。
「薫の実家から送られてきた新米、本当に何度食べても美味すぎる」
「ふふ、そうでしょ。米どころと名高い町だから」
食事のあと、わたしが洗い物係を引き受けた。洗い終わった食器を棚に戻してからリビングに行くと、蓮さんは風が通る縁側で、気持ちよさそうに文庫本を読んでいた。少し肌寒いけれど、蓮さんはこれくらいの気温が好きだということも、わたしはもう知っている。
文庫本のページをめくるとき、ちらりと表紙が見えた。アラスカをカヌーで旅するエッセイで、わたしも読んでみたかった本だ。蓮さんが読み終わったら貸してもらおう。
わたしは自室に行き、少し早いかもと思いつつ、クローゼットの奥から薄手のダウンジャケットとマフラー、冬物のルームウェアを引っ張り出す。長野に住んでいた頃に比べて、冬物のかさばり具合は半分程度まで減っている。
長野のみんなは元気かな。
そんなことを考えながら夏服を畳んでいると、スマホの着信を知らせる電子音が鳴った。
「薫! 久しぶりだね! 元気にしてる?」
スマホからは、小学校から高校まで一緒だったいちばんの親友、明日香ちゃんのウキウキした声が響いてきた。
「明日香ちゃん! 元気だよ。今ちょうど、みんな冬支度始めたかなって考えていたところ」
「もちろんバッチリだよ。ハウスの撤収も無事終わったよ。バックレようと思ったんだけど、おじいちゃんに捕まって手伝わされた」
明日香ちゃんの実家は農家だ。雪が多いので冬の耕作はしておらず、ハウスも雪が降る前に撤収する。わたしも何度か手伝いに行ったことがあった。
お駄賃としてもらえるリンゴ、美味しかったなぁと郷愁にひたっていると、明日香ちゃんがおもむろに切り出した。
「ねぇ薫、LINEで引っ越したって言ってたけど、仕事辞めたの?」
わたしは心臓が跳ねるのを感じて、スマホをぎゅっと握りしめた。
まだ明日香ちゃんにも、蓮さんのことは伝えていない。
いずれは実家をも巻き込むことにもなる話だ。わたしと蓮さんとの結婚に1年の契約が絡んでいることは、誰にも話すまいと決めている。少なくとも離婚までは。
明日香ちゃんに対しても、一目惚れの恋愛結婚ということにして、契約が終了してから本当のことを話すつもりでいる。
「心配させてごめん。会社は辞めてないよ。詳しくは直接会って話そうと思っていたんだけど、実はその、いろいろとあって、その……」
「何よ、珍しく歯切れが悪いじゃん」
「その……結婚することになりまして」
「えっ、結婚!?」
電話の向こうで、驚きのあまり言葉を失う気配がした。
「ちょっと待って、薫、付き合ってる人いたの!? わたし聞いてないんだけど!」
「それがその……お互い一目惚れで、いろんなことがトントン拍子に決まってね……」
ごめん明日香ちゃん、本当は後ろ暗くて話せませんでした。
「そっか」
明日香ちゃんの声が少し途切れる。
「……事前に聞いてなかったのは、親友としてちょっとショックだったけど。でも、おめでとう! 薫が好きな人と結婚するなら、わたしも嬉しいよ」
「明日香ちゃん……ありがとう」
あと、嘘をついたりしてごめん。
「でも、薫が一目惚れなんて珍しいよね。薫は昔から行動派だけど、同じくらい慎重派でもあるのに」
さすが幼馴染からの親友。わたしのこと、よくわかっていらっしゃる。
わたしがぐうの音も出ずにいると、明日香ちゃんは思い出したように話を続けた。
「そうそう、電話した件なんだけど、来週、和樹が出張でこっちに来るらしいの」
その名前を聞いて、またしてもわたしの心臓は、大きく収縮する。
「そう、和樹が……」
「みんなで集まろうって話が出たから、薫もどうかなって思ったの。あ、そうだ! もしよかったら、彼氏も連れてきて! 薫の婚約者なら大歓迎だよ」
明日香ちゃんは、わたしと和樹の間に何もなかったかのように明るく言った。
わたしはちょっと考える。いずれは実家への挨拶も行かなければならないし、いい機会といえばいい機会なのかも。
それに……和樹に会って、結婚を報告したい気持ちもある。
そうすれば、魚の小骨のようにわたしの心のひっかかったままのわだかまりも、消えてなくなるかもしれない。
「わかった。蓮さんに聞いてみるね。普通の土日だから、ゆっくりとはできないけれど」